第46話:海務商会の主
ロザリンドがカルテンへ戻ったのは、時化から半月後だった。帳場は、留守のあいだも回っていた。マルロが判を押し、ドナウが鳩を回し、エルシーが商会側の苦情を全部引き受けていた。
「嬢様。海の話は、儲かりますかね」
「今のところ、四百枚の赤です」
「へえ。……で、それをどう思ってらっしゃるんで」
「安いと思っています」
マルロは「そうですかい」と言って、それ以上訊かなかった。ドラゴ・ヴェスパが帳場へ来たのは、その三日後である。先触れが、正しく届いた。
〈翼の座 ギルド長 ロザリンド・ヘイルワース殿
来る七日、午の刻より一刻ののち、御帳場へ参上いたしたく。
供は二名。用件は、御挨拶と、値の話。
御都合が悪ければ、日を改めます。改めても、いずれ参ります。
サルヴェニア 海務商会 ドラゴ・ヴェスパ〉
日と刻限が書いてあり、そのとおりの刻限に馬車が着いた。供は二人だけだった。マルロが先触れを二度読んで、鼻を鳴らした。
「嬢様。この『改めても、いずれ参ります』ってのが、いけ好かねえですな」
「正直な方だと思います」
「正直な奴がいちばん厄介ですぜ」
五十前後の、大柄な男である。日に焼けているが、手は荒れていない。海の男ではなく、海を数える男の手だった。
「ロザリンド・ヘイルワース殿。海務商会のドラゴ・ヴェスパと申します」
「お待ちしておりました」
「いや、待たれてはおられんでしょう。招いてもおられん」
彼は笑い、勧められた椅子に掛けた。
「先に一つ、詫びを申し上げる。シメオンのしたことは、行き過ぎでした。鳩を落とすなど、下品だ」
「灯を消したのは、行き過ぎではありませんか」
「あれは、行き過ぎです」
あっさり認めた。
「わたしは、下の者の始末を否まん主義でしてね。否むと、次から誰も報せてこなくなる」
ロザリンドは、湯気の立つ茶を彼の前に置いた。北の茶である。
「二人、亡くなりました」
「存じております」
「それだけですか」
「それだけです。……いや、正確に申しましょう。わたしは、それを高いと思っておりません」
帳場の隅で、ピナの手が止まった。
「船は沈むものです。海に出れば、毎年何百と沈む。灯りがあろうと無かろうと、沈むものは沈む。わたしがしたのは、そのうちの三隻の沈む場所を、あらかじめ決めておいたということだけだ」
彼は、両手を卓の上で組んだ。
「非道だとお思いか」
「はい」
「わたしもです。ですが、商いは非道と別のところで動く」
ロザリンドは、答えなかった。ドラゴは、懐から一枚の紙を出して、卓の上に広げた。
海図である。ただし、陸が描かれていない。海岸線も、島の形も無い。あるのは潮の筋だけで、いくつもの線が季節ごとに色を変えて渦を巻いている。
「これが、わたしの見ている世界です」
「陸がありませんね」
「要らんのですよ。陸は動かない。動かないものは、値が動かない」
彼は、一本の線を指でなぞった。
「あなたは、地図に赤い線を引かれたそうですな。街道と、中継所と、鳩の道」
「はい」
「わたしは、それを一度も引いたことがない。海には道が無いからです。道が無いところでは、報せは値になる」
ロザリンドは、海図を見ていた。
「ヴェスパ殿。一つ伺います」
「どうぞ」
「あなたは、この海で報せを商っておられます。では、この海で報せを読める人は、いま何人おられますか」
「……ほう」
ドラゴが、初めて目を細めた。
「良い問いだ」
「お答えいただけますか」
「答えましょう。多くはない。そして、多くしてはいけない」
彼は、指で海図を二度叩いた。
「海は広い。広いから、読める者を少なく保つことが、そのまま商いになる。陸のようにはいかん。陸は道を敷けば誰でも通れてしまう」
ロザリンドは、茶碗を持ち上げなかった。
「読める人を、少なく保つ」
「はい」
「保つとは、どうやって保つのですか」
ドラゴは、その問いに、少し間を置いた。
「育てて、配ります。使えるうちは使う」
「使えなくなったら」
「降ろします」
「降ろした先は」
彼は、微笑した。
「それは、わたしの帳簿の外です」
卓の脚が、鳴った。ヨナが立ち上がっていた。カルテンまで連れてきたことを、ロザリンドはこのとき初めて後悔した。
ドラゴは、その子を見た。驚かなかった。むしろ、懐かしいものを見る顔をした。
「ときに」
彼は、ロザリンドのほうへ向き直った。
「エイナルの娘は、ご息災ですかな」
誰も答えなかった。
「あれは、よく読む子でした。十のうちの二人に入る子だ。惜しいことをした」
ヨナは動かなかった。動かないまま、両手を握っていた。
「ヴェスパ殿」
ロザリンドの声は、いつもと同じ高さだった。ただ、いつもより短かった。
「本日の御用は、何でしょうか」
「顔を見に来ただけです。値をつける前に、品を見るのが商いの筋でしてね」
「品」
「失礼。言葉が過ぎました」
彼は立ち上がり、海図を折り畳んで、卓に置いたままにした。
「差し上げます。北の帳場に、海図が一枚もないのは不便でしょう」
扉の手前で、彼は振り向いた。
「ヘイルワース殿。あなたは、道を売っている。道には値がつかない。値のつかないものを配る店は、遠からず潰れます」
「はい」
「潰れる前に、一度、ちゃんとした話をしましょう」
馬車の音が遠ざかってから、しばらく誰も口をきかなかった。ピナが、ようやく言った。
「……お嬢。あたし、あの人、蠍より嫌いです」
「同感です」
「え、言い切りました?」
ロザリンドは、卓の上の海図を広げ直した。陸の無い地図である。
「ピナ。この地図には、湊が一つも描かれていません」
「そうですね」
「湊は陸です。人が住んでいる場所です」
彼女は、その紙を丁寧に畳んだ。
「あの方の地図には、人が一人も乗っていません」
値をつける前に、品を見に来たそうです。
次話、網ごと買う話が来ます。金額の欄は、また空白です。
※ブックマークに値はつきません。




