第45話:夏の時化
夏の大時化は、三日前から分かっていた。最初に言い出したのはガレトである。支所の板を書き終えたあと、白墨を置いて、海を長いこと見ていた。
「嬢様。……いや、支所長」
「はい」
「三日後だ」
「何がですか」
「時化る。四十年で、七度しか見てないやつが来る」
ロザリンドは、その根拠を訊いた。
「うねりの間隔が、昨日から二つぶん伸びた。空は関係ない。海の底のほうが、先に知ってる」
帳面に書き取り、彼女は湊の主だった顔を支所へ呼んだ。
商館は来なかった。
二日目の朝、サルヴェニアの商館の船が三隻、まとめて出港した。積荷を満載したままである。
「逃がしましたな」とガレト。「自分とこの船だけ、先に沖へ」
「なぜ沖へ」
「湊にいるほうが危ない。時化の日は、桟橋で船同士がぶつかって沈む。沖のほうが、腕さえあれば助かる」
そして、出ていった三隻は、桟橋の入口にいちばん近い三本の舫い綱を、解いたまま海に流していった。
「……嬢様。あれ、わざとです」
流れた綱が、桟橋の入口で絡んでいた。ほどくのに半日はかかる。そのあいだ、湊の外にいる船は、いちばん近い三本の桟橋に着けられない。
「ガレト殿。あと何隻、沖にいますか」
「漁が二十一。沿岸の荷が九。……三十だ」
「戻す刻限は」
「時化の来る前、明日の朝までだ」
ロザリンドは、卓の上に紙を四枚並べた。
「ピナ。板と、読み上げ台」
「はい」
「ヨナ。櫓から旗を。夜は灯り」
「うん」
「コリン。鳩を、南回りと内陸に。近隣の浜まで全部」
「腕、片方しか使えませんが」
「片方で足ります」
「ガレト殿は」
老水先人が顔を上げた。
「あなたの組合の水先人を、四十人お借りします」
「うちの連中に、何をさせる」
「舟を出して、口で言って回っていただきます。沖の一隻ずつに」
ガレトは、少しのあいだ黙った。
「……ただでか」
「いいえ。日当は払います。銀で、一人二枚」
「時化の前の日に、二枚で舟を出す馬鹿はおらん」
「では、いくらなら」
「五枚だ」
ロザリンドは、即座に帳面へ書いた。
「五枚で。四十人、二日ぶん」
「即決するな。……あんた、それでいくらになるか分かってるのか」
「銀四百枚です。支所の三月ぶんの上がりが飛びます」
「分かってて言うな」
「はい」
ガレトは、太い手で顔を一度こすった。
「……三枚でいい」
「五枚とおっしゃいました」
「三枚だ! うちの連中の命の値だ、俺が決める!」
その日から、翌朝までが勝負だった。
板は半刻ごとに書き換えられた。読み上げ台では、ピナと市の見習いが交代で叫び続けた。櫓ではヨナが旗を振り、日が落ちてからは灯りに切り替えた。鳩は四十七羽が飛んだ。組合の舟は十九艘出て、沖の船に一隻ずつ横づけした。
〈明朝までに戻れ。三日ぶんの時化。桟橋は東の四本を空けてある。
沖にとどまるな。牙瀬に寄るな。
お代はいただかない。——翼の座 湊バルカ支所〉
同じ一文が、板と、口と、旗と、灯りと、鳩と、舟で出た。六つの道を、同じ言葉が同時に通った。
時化は、翌日の昼過ぎに来た。
三日、湊は白と灰色だけになった。桟橋が二本壊れ、屋根がいくつも飛び、支所の板は真っ二つに割れた。
だが、船は三十隻とも、湊の中にいた。
四日目の朝、風が落ちた。瓦礫を片付けているところへ、代官所の使いが走ってきた。
「支所長! 商館の蔵が」
商館の裏の低いところにある古い蔵が、高潮で浸水していた。中の荷を運び出す人手が足りず、商館は湊の人足を金で集めていた。
運び出された荷の中に、帳簿の箱が三つあった。そのうちの一つを担いだ人足が、途中でつまずいた。箱の蓋が外れ、中身が桟橋にぶちまけられた。拾い集めていたのは、支所の男である。給金七枚の、あの男だった。
彼は、そのうちの一冊だけを、抜いた。支所へ持ち込まれたそれを、ロザリンドは開いた。
鴎岬の灯台の、当直帳である。代官所にあるものとは別の、もう一冊。〈異状なし〉と書かれていない、書き足しのない、素のほうの控えだった。
〈八月十一日 夜半 霧 二十三刻より二十四刻まで 布 三度 三巡〉
〈一月九日 夜半 霧 二十二刻より 布 三度 四巡〉
〈四月二十七日 夜半 霧 二十三刻半より 布 三度 二巡〉
三夜とも、末尾に同じ署名があった。〈商館 指図により〉。
ロザリンドは、それを二度読んだ。
「……嬢様。俺、盗みました」
男は、蒼い顔で立っていた。
「拾いました、と申しておきます」
「え」
「桟橋にぶちまけられたものを、拾った。事実です」
彼女は帳を閉じ、それから男を見た。
「あなたの娘さんは、商館の下働きでしたね」
「……はい」
「今日から、支所で雇います。同じ給金で」
男は、その場に座り込んだ。
三日目の夕方、アルディスからの鳩が届いていた。時化のあいだ、櫓の鳩舎で足止めになっていたものである。
〈こちらは無事。そちらの数字は聞いた。四百枚。
言っておくが、俺は反対せん。あんたが銀四百枚で三十隻を買ったなら、安い。
領の会計がうるさく言ったら、俺が黙らせる。——ヴェイン〉
ロザリンドは、その紙を帳面に挟んだ。
「ピナ」
「はい」
「返事は、要りません」
「珍しいですね」
「書くことが、無いので」
ピナが、にやりとした。
「顔に出てますよ」
「出ていません」
シメオンの召還が決まったのは、その七日後である。王国海務代理の申請は取り下げられた。当直帳の控えが代官所と評議の両方へ回り、商館は「湊の一商館の独断」として、館主を本国へ戻すことで幕を引いた。
去り際、シメオンは支所へ寄った。挨拶をする男である。
「……あなたは、値のつかないものを配りすぎる」
「はい」
「配ったものは、返ってきません。商いというのは、返ってくるものだけを数えるのです」
「四百枚は、返ってきませんでした。船は三十隻、返ってきました」
シメオンは、初めて笑わなかった。
彼が乗った船が出た三日後、召還の便に添えられていた一行が、支所へ回ってきた。商館の紋の入った紙に、太い字で、こう書いてあった。
〈では、わたしが行く〉
四百枚が飛んで、三十隻が残りました。代理人が一人、消えました。
次話、本人が北へ来ます。第二部の相手が、ようやく顔を出します。
※ブックマークは時化でも外れません。




