第44話:霧の中を、継ぐ
朝、湊は白かった。桟橋の先が見えない。船の帆柱が、途中から溶けている。ピナが手を伸ばして「指の先が霞んでます」と言った。海霧である。この季節、湊バルカでは三日に一度出る。
「ヨナ。この霧で、旗は」
「死ぬ。半町先も見えない」
「灯りは」
「もっと駄目。にじむだけ」
海の網が、二つとも止まった。
櫓からの鳩は着いていた。夜明け前の報せである。〈沖に二隻。位置を失う。昨夜の座礁を知り、動けず〉。
昨夜の〈砂雲〉の一件が、沖に伝わっていた。伝わったせいで、動けなくなっている。牙瀬がどこにあるか分からないまま漂うより、止まっているほうが安全だと船は考える。
だが、止まっていても潮は動く。
「コリン。潮は」
「返し潮です。……牙瀬のほうへ、流れます」
コリンは、腕を吊ったまま帳の前に座っていた。動かせるほうの手で、潮の表をめくっている。
「何刻で着きますか」
「潮の速さからいくと、昼過ぎには岩の上です」
コリンが、めくっていた潮の表から手を離した。
「ガレト殿。船を出せますか」
「出せん」
老水先人は即答した。
「この霧で出したら、助けに行った船が二隻目の座礁だ。四十年やってきて、これだけは言える」
「分かりました」
ロザリンドは、卓に地図を広げた。湊。鴎岬。牙瀬。沖の二隻のおおよその位置。それから、彼女は顔を上げて、天井を見た。
「ピナ。今朝、鳩は飛びましたか」
「飛びました。櫓からの、その一羽が」
「霧の中を、飛んできたのですか」
ピナが目を丸くした。
「……いや、そういえば」
ドナウの弟子が、口を挟んだ。
「鳩は、霧の上を飛びます。海霧は低うございますので。高さ三十丈も上がれば、上は晴れておりますで」
ロザリンドの指が、地図の上で止まった。
「霧は、下だけですね」
「へえ。上は、たいてい晴れとります」
彼女は、地図に三つの点を打った。
「櫓は、崖の上です。高さは」
「六十丈ほどかと」
「では、櫓の上は霧の上ですか」
「……朝のうちは、まだ霧の中でしょうな。昼前には抜けます」
ロザリンドは、筆を置いた。
「ヨナ。旗は、上から下へ振れますか」
「え」
「櫓の上が霧を抜けたら、その旗は、霧の上を通って、沖から見えますか」
「……見える。沖の船も、帆柱の上は霧から出てるから」
子供の目が、初めて速く動いた。
「マストのてっぺんに人を上げれば、読める」
「読ませる方法は」
「こっちが先に振る。振り続ければ、誰かが気づく」
ロザリンドは立ち上がった。
「ではこうします」
彼女は、地図の上を左から右へ指でなぞった。
「一。支所から櫓へ、鳩。霧の上を飛ばせます。中身は潮の見立てと、牙瀬までの残りの刻限」
「はい」
「二。櫓の上から、ヨナが旗。霧を抜けた高さで、沖へ向けて振り続けます」
「三は」
「三。沖の船が動き出したら、その動きを櫓が読み、また鳩でこちらへ。——受け取ったかどうかを、こちらが知らないと、次が打てません」
ピナが、地図を覗き込んだ。
「……お嬢。それ、鳩と旗を、交互に継ぐってことですよね」
「はい」
「一本の網じゃ届かないから、二本つないで」
「はい」
ピナは、帽子のつばを弾いた。
「配達、行ってきます」
鳩は四半刻で櫓に着いた。ヨナが櫓のいちばん高い板に登ったとき、霧はまだ櫓の腹まで来ていた。子供は待った。半刻待って、霧の面が下がった。そこから先は、腕だけの仕事だった。
形と、色と、高さ。一語ずつ、同じ並びを繰り返す。
〈牙瀬、南南東。潮は返し。動け。南南東へ舵を切れ。翼の座〉
二十回。四十回。腕が上がらなくなり、下ろし、また上げた。ピナが櫓へ登ってきたのは、六十回を越えたころである。
「代わります」
「あんた、まだ二十四しか覚えてない」
「この文の形は、全部覚えました。さっき、下で百回やりました」
ヨナは、ピナの腕を見た。赤く腫れていた。
「……三回に一回だけ」
「はい」
二人は交代で振った。
昼の鐘が鳴るころ、櫓の見張りが叫んだ。
「動いた! 一隻、舵を切りました!」
しばらくして、もう一隻も向きを変えた。紙が鳩に括られ、霧の上を飛んで、支所の窓に降りた。ロザリンドは、その紙を広げた。ヨナの読みを、櫓の兵が書き取ったものである。
〈沖より返信あり。二隻とも、南南東へ。
旗の返し「読めた。誰だ」
こちらの返し「翼の座」
沖の返し「知っている。板の店か」〉
ロザリンドは、その最後の一行を二度読んだ。
夕方、二隻とも湊に入った。一隻は王国の商船、もう一隻はサルヴェニアの小さな交易船だった。交易船の船主は、桟橋に降りるなり支所へ来て、帽子を取った。五十がらみの、日に焼けた男である。
「板の店の、あんたが頭か」
「はい」
「助かった。……礼を言う」
彼は、それから支所の奥にいるヨナを見た。見て、動きが止まった。
「あんた、エイナルの娘か」
「……そう」
「そうか。生きてたか」
男は、しばらく言葉を探していた。
「エイナルさんは、北と文をやり取りしてた。何年も。北の、駅逓の偉い人と」
「駅逓の」
ロザリンドの声が、少しだけ低くなった。
「その方の名を、ご存じですか」
「名は知らん。エイナルさんは『北の耳』としか言わなかった。——ただ」
男は、桟橋のほうを振り返った。
「あの人、言ってたよ。『いつか二つを継ぐんだ』って。陸の網と、海の網を」
一つの網では届きません。二つ継げば、届きます。
次話、夏の大時化です。第二部・第二の区切りになります。
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