第43話:登る子
商館の裏から見つかった油の樽は、代官所が押さえた。
押さえはしたが、返しはしなかった。〈所有の帰属が判然とせぬため、預かり置く〉という一行が、書類には書いてあった。役所というのは、判然としないものを預かるのが好きな場所である。
ロザリンドは、その書類を読んで、争わなかった。争えば十日かかる。
「ガレト殿」
支所の板を書き終えた老水先人が、白墨のついた手を振り向けた。
「なんだ」
「この湊で、油を持っているのはどなたですか」
「そりゃ、商館だな」
「他には」
「……漁の連中が、灯り用のを少しずつ」
ロザリンドは、その日の午前、代官所へ二度足を運んだ。二度とも、同じ答えだった。帰属が判然とせぬゆえ、預かり置く。書式は正しく、手続きは適法で、返す期日だけが書いていない。
三度目は行かなかった。行っても、同じ紙が出てくる。役所というのは、悪意で止まるより、書式で止まるほうが多い。書式で止まったものを動かすには、上から命じるか、書式のほうを変えるしかない。どちらも十日はかかる。
十日待つあいだ、灯台は暗いままである。
その日、ピナが桟橋を端から端まで走った。一軒で一升。次で半升。断られたのが四軒、出してくれたのが十一軒。集まったのは、四斗にわずかに足りない量だった。
「お嬢。あの、みんな『いくらだ』って訊かなくて」
「そうですか」
「『あの板の姉ちゃんとこか』って。それで、出してくれました」
ロザリンドは、集めた油の桶を数えた。数えてから、帳面を開いて、十一軒の名前を全部書いた。
「返します。倍にして」
「倍ですか」
「はい。ただでもらったものを、ただにしておくと、次に借りられなくなります」
その日の昼、北から鳩が来た。アルディスの字である。几帳面で、三行あった。
〈灯が消えた件、櫓の兵から聞いた。人死には二人。
油を買う金が要るなら出す。言え。言わんと分からん。
——それから、崖の道を夜に歩くな。あんたは落ちても報せを離さん質だから、余計に危ない。ヴェイン〉
ロザリンドは、二行目と三行目のあいだを、少し長く見ていた。
「お嬢。返事、書きます?」
「はい。〈油は集まりました。夜は歩きません〉と」
「二つ目、嘘ですよね。昨日歩いてました」
「昨日は、昨日です」
問題は、運び上げる者だった。鴎岬の塔は、螺旋階段が七十八段ある。油の樽は、一つで大人一人ぶんの重さがある。それを、崖の上まで馬で運び、そこから塔の頂上まで担ぎ上げる。
王領の番人は、二人とも殴られた翌日で、片方は肋を痛めていた。兵は櫓の当直を外せない。
「あたし、行きます」
ピナが手を挙げた。
「あんた、一人で樽担げるの」
ヨナだった。
「……三回に分ければ」
「三回登ったら、日が暮れる」
「じゃあ二人で」
ヨナは、その言葉を待っていたように立ち上がった。崖の道を、二人と一頭で登った。ロザリンドと兵が二人、後ろからついた。塔のふもとで、ヨナが足を止めた。
石の壁に、色の違う場所がある。長方形に、少しだけ新しい石が嵌めてある。三年前に直したのだと、王領の番人が言っていた。
ロザリンドは、そこを見なかった。
「ヨナ」
「うん」
「登れますか」
「登る」
樽は二人で担いだ。ピナが下、ヨナが上。七十八段を、三度に分けて。二度目の途中で、ヨナが階段の真ん中で止まった。止まったまま、動かなかった。
「……ヨナ?」
ピナは、急かさなかった。樽を下の段に置いて、自分もそこに座った。石の窓から、朝の海が見えた。
「あたし」
ヨナの声は、いつもと同じくらい低かった。
「九つのときに船に乗せられて、三年乗って、目が霞むようになって、それで降ろされそうになった」
「うん」
「そしたら、父さんが灯台やめて、迎えに来た。二十年やってた仕事、やめて」
ピナは、何も言わなかった。
「そのあと、商館の人が来た。『灯りの回し方を、少し変えてくれ』って。父さんは断った。何回も来て、何回も断った」
海鳥が、窓の外を横切った。
「最後に来た日、父さん、あたしに『先に湊へ行け』って言った。あたし、行った。行ったら、夜に灯りが消えた」
ヨナは、膝の上で手を握っていた。
「次の日、父さんは塔の下で死んでた。組合は『足を滑らせた』って書いた」
窓の外で、海鳥がもう一度鳴いた。
「……父さんは、油の樽を、七十八段、二十年運んでた人だよ」
ピナは、そこで初めて口を開いた。
「落ちませんね、そういう人は」
「うん」
ヨナが立ち上がった。
「布を、燃やそうとしたんだと思う。三枚。あれを燃やしたら、嘘の灯りは出せないから」
二人は、樽を担ぎ直した。三度目の登りのとき、ロザリンドも塔に入った。
七十八段は、思っていたより急だった。段の高さが不揃いで、途中で二度、幅が変わる。二十年、毎日この段を樽を担いで上がった人間の膝が、どうなっていたかを想像する。
最上段の手前に、擦れて丸くなった石が一つあった。踏み場である。この一段だけ、他より深くへこんでいる。
人が同じ場所を二十年踏むと、石が減る。
ロザリンドは、その一段を跨いだ。踏まなかった。
その日の日暮れ前に、灯りは戻った。火を入れたのはヨナだった。誰も譲れとは言わなかったし、誰も止めなかった。子供は油壺に火を落とし、硝子を閉め、回転の錘を巻き上げた。
八つ数えて、一度。湊から見上げていた者たちが、桟橋で声を上げたという。
夜、ロザリンドは櫓の上にいた。
「ヨナ。間を、刻めますか」
「刻む。なんて言う」
「〈鴎岬、灯、戻る。以後、常灯。翼の座〉」
子供は布を持ち、光を切った。長く、短く、短く。
沖から、返事があった。旗ではなく、灯りだった。遠く、水平線に近いあたりで、小さな光が三度またたいた。ヨナの手が止まった。
「……返した」
「どなたですか」
「分かんない。あんな沖に、常灯は無い」
光は、それきり出なかった。ロザリンドは、その位置を帳面に書き取った。書き取ってから、ヨナのほうを見た。
「ヨナ。ひとつ伺います」
「なに」
「お父上は、北へ手紙を出しておられましたか」
子供は、すぐには答えなかった。
「……出してた。何年も。返事が来なくなってからも、出してた」
「いつから来なくなりましたか」
「あたしが八つのとき」
七年前である。
灯りは戻りました。沖から、誰かが返しました。
次話、霧です。旗も灯りも死ぬ朝に、鳩が飛びます。
※ブックマークは七十八段の上でも受け取れます。




