第42話:灯を、消す
夜半、鴎岬の灯が落ちた。櫓の当直が気づいたのは、消えてから十を数えるほど後だった。灯台は八つ数えて一度回る。九つ、十と数えて、来なかった。
当直は鐘を打った。もう一人が鳩を出した。紙には四文字だけ書いた。〈灯、消エタ〉。
その鳩が支所に着いたとき、ロザリンドはまだ帳場にいた。
「ヨナを起こしなさい。ピナは馬を」
「お嬢、夜の崖道は」
「歩きます。走ればどのみち落ちます」
岬に着いたのは、明け方近くだった。塔の扉は開いていた。中の螺旋階段には、油の匂いが濃く残っている。上の硝子の部屋で、王領の番人が二人、床に座り込んでいた。縛られてはいない。ただ、殴られていた。
「……いきなり、六人ばかり」
「顔は」
「布で。……油の樽を、全部転がして、崖から落としていきました」
油壺は空だった。予備の樽も無い。火を入れる材料が、この塔には一滴も残っていなかった。ロザリンドは、硝子の部屋の窓から沖を見た。黒い海に、二つ、小さな灯りが浮かんでいた。舷灯である。二隻とも、動いていない。
「ヨナ」
「……止まってる。位置が分かんないと、動けないから」
「牙瀬は、どちらですか」
子供は、暗い海の一点を指した。二つの舷灯は、その方角へ、ゆっくり流れていた。潮に乗っているのだ。船が動いていなくても、海のほうが動く。
「ピナ。湊へ戻って、油を」
「往復で四刻かかります」
「では四刻で」
「間に合いますか」
「間に合いません」
ロザリンドは、それだけ言った。
彼女は、階段の途中で足を止め、手すりに手を置いたまま動かなかった。それから、誰にも聞こえない大きさで、一言だけ言った。
「……わたくしと、同じことをする人がいます」
ピナが振り返った。
「お嬢?」
「なんでもありません。行きなさい」
偽の灯りを点けるには、油が要る。人が要る。段取りが要る。だが灯りを消すのは、樽を落とせばいい。止めるだけでいい。止めるだけで、何も届かなくなる。
三年前の秋、彼女は王宮の大広間で「報告を止めます」と言った。あの一言のあと、王都には何も届かなくなった。彼女は誰も殺していない。ただ、止めただけである。
いま、同じことを、海でやられている。
「ヨナ。この塔に、火の点くものは」
「……無い。油だけ」
「櫓には」
「篝火があります」と兵の一人。「ですが、あんな小さい火では、沖からは見えません」
ロザリンドは、階段を降りた。降りながら、頭の中で数を数えていた。櫓の篝火は小さい。沖からは見えない。だが、見えないのは光が弱いからで、方角が違うからではない。
「兵の方。篝火を、櫓のいちばん高いところへ」
「はい」
「それから、板を一枚。火の前に立てて、二人がかりで、横へずらしたり戻したりできるように」
「……何をなさるので」
「間を作ります」
東の空が白む前の、いちばん暗い時刻だった。櫓の上で、篝火が焚かれた。小さい。頼りない。そのまま出しても、沖の船は気づかない。だが、ヨナは板の後ろに立って、迷わなかった。
「見てるやつは、灯りが消えたのに気づいてる。気づいてるやつは、明るいところを探す。探してるときは、小さくても見える」
子供は板を横へずらした。長く。戻す。短く。短く。三度またたかせて、そのあと続けた。
「いま何と」
「『岩、そっち』『動くな』『朝まで待て』」
板の擦れる音と、火のはぜる音だけがした。
四半刻。半刻。
沖の舷灯は、流れ続けていた。
三刻ほど経って、東の空が白み始めたころ、二つの灯りのうち一つが、ゆっくりと向きを変えた。牙瀬とは逆の方向へ、じりじりと動いていく。
ヨナが板から手を離した。
「……読んだ」
「一隻だけですね」
「うん」
もう一つの舷灯は、動かなかった。朝の光が海に落ちるころ、その灯りは消えていた。消えたというより、無くなっていた。
昼前に、湊へ知らせが来た。〈商船〈砂雲〉、牙瀬にて座礁。乗員九名、うち七名を救助〉。
二人が、戻らなかった。救助に出たのは、組合の舟である。ガレトが自分で舵を取ったと、後で聞いた。彼は湊へ戻ってきてから、支所へは来ず、板も書かず、その日は一言も喋らなかった。
積荷は、朝のうちに浜へ流れ着いた。樽が十七。塩漬けの魚と、鉄の地金である。
拾ったのは湊の人足で、集積された先は商館の裏だった。今度は隠しもしなかった。〈拾得物、当商館にて保管〉の札が、その日のうちに立った。
嘘の灯りを点けなくても、灯りを消せば同じ結果になる。手間は十分の一で済み、証拠は何も残らない。
ロザリンドは、その報せを支所の板には書かなかった。書かずに、帳面に書いた。書いてから、その頁をしばらく開いたままにしていた。
昼過ぎ、鴎岬の油の樽が、まとめて商館の裏の荷置き場から見つかった。中身は入ったままだった。誰が置いたのかは分からない。分からないように置いてあった。
その日の夕方、支所の卓に、ヨナが一枚の紙を持ってきた。覚え書きの、二枚目である。ピナの字で、ヨナが読み上げたものが書いてある。
〈灯り語 覚え書き(第二)
消灯は「無言」ではない。常灯の消灯は、それ自体が一語である。
常に点いているものが消えたとき、それは「ここに、もう報せる者がいない」を意味する。
——この一語は、まだ誰も辞書に書いていない〉
ロザリンドは、その紙を長いこと見ていた。
「ヨナ。この最後の一行は、あなたが言いましたか」
「うん」
「どこで覚えましたか」
子供は、少し考えた。
「九つのとき」
偽物を作らず、無くす。彼女自身の手を、鏡で返されました。
次話、油はもうありません。それでも塔には、登れます。
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