第41話:王都は、海を知らない
王都の朝は、以前より静かになった、と老侍従セドリックは思う。静かになったのは、廊下を走る者が減ったからである。走る者が減ったのは、走らせる者が減ったからだ。宰相府の扉には、いまだに封がしてある。
評議は、毎朝ひらかれている。開いてはいるが、決まらない。
「南の油が、また上がっております」
商務局の若い官吏が、その朝も同じ報告をした。
「原因は」
「……不明でございます」
「先月も不明と申したな」
「はい」
卓を囲む顔が、そろって黙る。王都は、海が見えない街である。北にも東にも街道は伸びているが、南の湊までは馬車で三日かかり、その三日のあいだに相場は二度動く。
以前は、動く前に数字が来た。誰が持ってきていたのか、この卓の誰も気にしたことがなかった。
昼を過ぎると、セドリックは商務局の窓口へ回る。仕事ではない。習慣である。窓口の前には、列ができていた。
貴族家の使いが四人。商会の番頭が七人。組合の代表が二人。並んでいる先は、王国の官の窓口ではない。その隣に去年から出ている、木の札の下がった小さな机である。
〈翼の座 王都商務局取次 定期の相場報 旬ごと銀三枚
海の報せ(湊バルカ発) 入港見込・潮・沖の空模様 旬ごと銀四枚
※依頼人の身分による先後は設けません〉
列の先頭は、伯爵家の家令だった。その後ろに、油の仲買が並んでいる。家令は不服そうな顔をしていたが、何も言わずに順番を待っていた。言えば、条項を読み上げられるからである。
セドリックは、その列を数えた。三十七人。先月より、十一人多い。
列の後ろのほうに、見知った顔があった。オルグレン伯爵家の、老いた家令である。かつては夜会のたびに三人の従者を連れて歩いていた男が、いまは一人で並び、擦り切れた外套の裾を気にしている。
オルグレン家は、去年の羊毛で傾き、今年の油で沈んだ。当主は領地へ引き、娘のミレーユは社交から名前が消えた。誰も彼女を追い出してはいない。招かれなくなっただけである。
家令は、順番が来ると、旬ごとの相場報を一部だけ買った。銀三枚。それをたいそう大事そうに懐へ入れて、来た道を戻っていった。
セドリックは、その背中を見送った。
三年前、この家令は、断罪の夜の大広間にいた。あの晩、彼が誰の隣で拍手をしていたかを、老侍従は覚えている。覚えているが、書かないことにしている。
数えるのが仕事で、裁くのは仕事ではない。
夕刻の評議で、若い伯爵の一人が声を荒らげた。
「体裁が悪うございます。王国の海の値を、辺境の私設の店から買っているなど」
「では、他にどこから買う」
答えたのは、第一王子レオニスだった。彼は、以前より痩せている。声も低くなった。
「王国の海務は、いま誰が数えている」
「……それは、湊の組合が」
「その組合の値が、先月から半分になった理由を、この卓の誰か知っているか」
誰も答えなかった。
「知らんのだ。俺も知らん」
レオニスは、卓の上で指を組んだ。
「体裁は、もういい。前にも同じことを言った」
誰も、次の言葉を引き取らなかった。セドリックは、部屋の隅で自分の手控えを開き、いつもの短い文を書いた。
〈王都は、海が見えぬ街。
見えぬものを、以前は誰かが数えていた。
数えていた者を、この街は追い出した。
いま、数字は買っている。買えるだけ、以前よりましである〉
書いてから、その最後の一行を、彼は線で消した。消して、書き直した。
〈買えるうちは、ましである〉
評議のあと、レオニスが一人で伝書塔へ上がったのを、セドリックは知っている。塔は、いまも半分しか使われていない。官営の鳩は数が戻らず、戻らないまま冬を二度越した。空の止まり木のほうが多い。
王子は、しばらく南の空を見ていた。それだけだった。文を書くでもなく、誰かを呼ぶでもなく、見ていただけである。降りてきたとき、手には何も持っていなかった。
その夜、商務局に一通の申請が上がった。
〈サルヴェニア〈海務商会〉より、王国海務代理の認可を願い出る件。
湊バルカにおける海務報せの一元化、ならびに官への定額納付を提案するもの〉
書式は完璧で、納付の額は王国の海務歳入の三倍だった。商務局長は、その紙を持って三日悩んだ。悩んだ末、評議へ回した。評議では、二つの声が出た。
「三倍でございます。海務の歳入が、坐っておるだけで三倍に」
「一元化とは、どういう意味だ」
「湊の報せを、当該商会が一手に束ねるということかと」
「束ねてどうする」
「……値を、定めると」
誰かが、小さく笑った。
「値を定めるのは、悪いことか。市には値が要る」
「要ります。ですが」
商務局長は、そこで言い淀んだ。彼は去年、翼の座と契約を結んだときの担当である。あの契約には、条項が一つ入っていた。依頼人の身分による先後を設けない、という一行だ。
あの一行を書かせた娘は、たしか二十歳になったはずだった。
「……ですが、定める者が一人でありますと」
彼は、そこから先を言えなかった。理由をうまく言葉にできなかったからである。
評議は、また決まらなかった。セドリックは、その夜の手控えに、こう書いた。
〈一元化、という語。
どこかで見た。——七年前、駅逓庁の設置の議で〉
彼は筆を置き、しばらく灯りを見ていた。それから、もう一行だけ足した。
〈あの方は、いま、湊におられるという。
お報せするべきか。
……いや。あの方は、数えておられよう。誰よりも先に〉
王都は海を知りません。ただ、買えるようにはなりました。
次話、灯が消えます。偽物を作るより、無くすほうが早いのです。
※ブックマークは列に並ばず受け取れます。




