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第4話:王都は、まだ何も知らない

 夜、カルテンの鳩舎の隅で、ピナが石板とにらみ合っていた。


「お嬢。この『れ』ってやつ、絶対おかしいです。途中で気が変わった形してます」

「変わっていません。書きなさい」

「うう。……あたし、喋るほうなら王国一なのに」

「ピナ。字が汚いのは構いません。報せが遅いのは許しません」

「はーい」


 少女は舌を出して、石板に向き直った。

 読み書きを習わせてほしいと言い出したのは、ピナのほうだった。理由は言わなかったし、ロザリンドも訊かなかった。ただ、毎晩四半刻、この時間だけは何があっても空けた。


 ——同じころ。

 南へ五日の距離にある王都では。


 駅逓庁の長官室で、バルツァー男爵は台帳を睨んでいた。


 新任の駅逓長官である。収税吏あがりで、取り立ての苛烈さで宰相の目に留まった男だ。先代までの長官は名誉職で、実務は公爵家の娘が回していたというが——女に務まった仕事だ、と男爵は着任の日に言った。

 その考えは、三日で改まった。いや、正確には、行き詰まった。


「……読めん」


 台帳は、符号だらけだった。

 中継所の名はすべて鳥の名で記され、伝令の名は数字、経路は色の名で書かれている。「椋鳥、七番、青、二刻遅れ」。それだけで王国の北半分の便が動いていたらしい。対応表があるはずだった。なかった。あの女の頭の中にだけ、あった。


「長官閣下。本日付の退職願が、また六名分」

「握り潰せ! 伝令ごときが、代わりなどいくらでもいる」

「はっ。……その、代わりに雇い入れた者たちですが、鳩の扱いを知らず、初日に十二羽逃がしました。研いだ足環で三人が指を裂き、一人は厩で馬に蹴られ」

「役立たずどもめ」

「それから——」


 若い書記官は、言いにくそうに続けた。


「鳩が、飛ばないのです」

「は?」

「残った鳩です。籠から出して報せを着けても、飛ばない。庭を一周して、屋根に戻ってくるのです。何度放っても。餌を絶っても。まるで——」


 行き先を、忘れたかのように。


「気味の悪いことを言うな!」


 バルツァーは書記官を怒鳴りつけて追い出した。それで鳩が飛ぶわけではなかった。


 彼は苛立ちまぎれに、残っていた古参の伝令を呼びつけ、給金を半分に切ると言い渡した。飛ばない鳩の飼い葉代は、貴様らの怠慢の代価だ、と。

 古参の伝令は黙って聞き、その場で帽子を机に置いた。

 退職願すら、書かなかった。


 一人になった長官室で、バルツァーは新しい規則を書き付けた。


 ——今後、駅逓庁に届く報せは、長官の検分を経てから各所へ回すこと。

 ——遅延・不着の類いは、庁の外へ漏らさぬこと。体裁は、庁にて整える。


 悪い報せは、届け方で良くも悪くもなる。取り立ての現場で覚えた知恵だった。

 届く報せがほとんどない今、検分の手間がかからないのだけが救いだ、と彼は自分の冗談に一人で笑った。


 同じ日、王宮では、東の隣国レムリアの使節が、笑顔のまま怒って帰った。


「親書への返答が六日遅れ、しかも着いた返書は宛名の敬称を誤っていた。レムリア王室は『何かの行き違いがあったのでしょう』と仰せです」


 外務卿の報告に、居並ぶ重臣たちがざわめいた。

 行き違い。外交の言葉で、それは警告という。


「国境の関市も妙です。あちらの商人が、妙に強気で……こちらの内情が、まるで筒抜けでないかのように、いえ、筒抜けであるかのように」

「どちらなのだ」

「……分からないのです。何も、入ってこないので」


 末席でそれを聞いていた老侍従セドリックは、ふと、ひと月前の夜会を思い出していた。


 あの晩も、報せは正確に届いていた。どこの家が困窮し、どこの縁談が壊れ、どの商会が船を失ったか。王宮は、いつでも王国じゅうの一番新しい報せの上に座っていた。それが当たり前だと、誰もが思っていた。

 空気のようなものだと。


 老侍従は、用もないのに大広間へ足を向けた。


 昼の大広間は無人で、掃除の行き届いた床に、東の柱の影だけが長く伸びていた。あの令嬢の、定位置だった場所だ。

 立ってみて、気づいた。


 右手には給仕たちの通用扉。酒と料理と一緒に、館じゅうの噂が出入りする扉だ。左手の露台は、老貴族たちが内密の話に使う場所。正面の柱の磨かれた石には、広間じゅうの顔がぼんやりと映る。


 ——ここは、聞く場所だ。


 王国でいちばん報せの集まる結び目に、あの方は十年、黙って立っていた。誰に話しかけられるでもなく。誰に名を呼ばれるでもなく。

 壁の花と、我々はそれを嗤った。


 思い出すことが、ひとつあった。

 いつかの夜会で、酔った若い貴族が余興に言ったのだ。「壁の花に水をやろう」と。葡萄酒の杯を持って柱の陰へ行き、しばらくして、青い顔で戻ってきた。何を言われたのかと皆が囃すと、若者は首を振った。

 ——何も。ただ「西の橋は、明日は渡らないほうがよろしいかと」と。

 翌日、西の橋は落ちた。春の増水で。

 あのときは、誰も彼も、気味の悪い偶然だと笑って忘れた。


「……嗤われていたのは、どちらだ」


 老侍従の呟きは、無人の広間に落ちて消えた。


「駅逓の遅延について、報告せよ」


 王宮の一室で、レオニスが苛立たしげに言った。外交文書の遅れの言い訳を聞くための、短い引見だった。


 バルツァーは揉み手で進み出て、恭しく書面を差し出した。


〈駅逓、異常なし。一部の遅延は、前任者の残した悪弊を改める過程の、一時の混乱によるもの。改革は順調である。 駅逓長官バルツァー〉


「一時の混乱、か」

「はっ。旧弊を除けば、二旬のうちに元通りに」

「そうか」


 レオニスは書面を放り出し、それから、ふと思いついたように笑った。


「妙なものだな。あの陰気な女が消えてから、やけに書類が遅い気がする。……疫病神の置き土産か?」


 取り巻きたちが追従して笑った。冗談は冗談のまま、天井に消えた。


 部屋の隅で、宰相ギデオン・クロフトが穏やかに頷いた。

 このバルツァーを駅逓長官に推したのは宰相である。評議も経ない、署名ひとつの異例の人事だった。それを妙に思う者は、いまの王宮にはいない。


「殿下、ご心配には及びません。報せが遅れているだけのこと。……ええ、ただ、それだけのことです」


 宰相は微笑んだ。

 レオニスは頷き、話は終わった。


 その日、王都に届くはずだった報せは、四十一通。

 届いたのは、零だった。


「異常なし。改革は順調」だそうです。

次話、辺境に最初の依頼人が来ます。そして王都の"正しい相場"が、ある伯爵家の財布に穴を開けます。

※ブックマークは異常なく届きます。こちらは改革不要です。


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