第3話:三日前から存じております
「王都を追われた令嬢に、何ができる」
カルテン城の広間で、アルディス・ヴェイン辺境伯は言った。
歳は二十五。戦場焼けした大柄な体に、飾り気のない革鎧。声が大きい。目つきは、値踏みをする商人のそれだった。
「置いてはやる。亡き公爵には、この領も世話になった——らしいからな。だが期待はするな。ここは王都と違う。刺繍と噂話で食える土地ではない」
「承知しています」
「働けるのか。何ができる」
「帳簿と、読み書きと」
ロザリンドは少し考えて、付け足した。
「……鳩の世話を」
「鳩」
辺境伯は天井を仰いだ。連れてきた二十余人の食い扶持を思ったのだろう、こめかみを揉んだ。
「好きにしろ。ただし、揉め事だけは起こすな」
それだけか、という顔を彼はしていた。泣くか、縋るか、誇りを盾に噛みつくか。そのどれかを待っていた顔だった。どれも来ないので、彼は鼻を鳴らして席を立った。
謁見は、それで終わった。
三日後の朝、城市カルテンの市場から、塩が消えた。
「値が倍だと? ふざけるな、先週の話をしているんじゃない、今朝の話だ!」
「ないものはないんだよ! 南の商隊が来ないんだ!」
市場に怒声が飛び交った。
南から塩を運ぶはずの商隊が、二組続けて現れなかった。噂が走り、買い占めが始まり、樽ひとつの値が朝のうちに跳ね上がった。塩壺を抱えた老婆が、空の量り台の前で立ち尽くしていた。
北の辺境で、塩は贅沢品ではない。冬を越すための命綱だ。
「冬までに肉と魚を漬けられなければ、この領は春を待たずに飢えます」
城の広間で、家宰の報告にアルディスは机を叩いた。
「軍の備蓄を放出しろ。それから南へ早馬を出せ。塩を、あるだけ——」
「恐れながら、備蓄では二旬ももちません。早馬が峠を往復するだけで十日。その間に値はさらに上がり、買い負けます」
「では、どうしろと言うのだ!」
「——塩でしたら、手当てが済んでいます」
静かな声が、広間の入口から届いた。
振り向いた男たちの視線の先に、ロザリンドが立っていた。脇に帳面を抱え、後ろには鳥打帽の少女を連れて。
「……何の話だ」
「三日前から存じております。南塩街道の商隊が、峠を離れて東へ迂回したことを」
ロザリンドは帳面を開き、広間の机に置いた。挟んであった紙片を、その上に並べる。几帳面な字の、小さな報せの写しだった。
〈南塩街道、商隊二組、峠の宿を引き払い東へ。飼葉の値、三日で四割上げ。川船、欠航三日目。——塩、三旬止まります。手持ちの石塩を、値の動く前に。 R〉
「峠の宿から、商隊が消えた。宿場の飼葉の値が上がった。川船が止まった。……点は、三つあれば線になります。商隊は割のいい帝国側へ荷先を替えた。塩は当分、来ません」
広間がざわめいた。家宰が紙片を取り上げ、日付を確かめ、もう一度確かめた。
「確かに、三日前の日付……。し、しかし、なぜ黙っておられた」
「申し上げました。城の門番に、二度」
ロザリンドは平坦に言った。
「『王都を追われた令嬢の使いは通せない』と。……ですので、手続きは諦めて、買付を先にいたしました。順番が前後したことは、お詫びします」
家宰が扉口を振り返り、控えていた兵が目を泳がせた。アルディスのこめかみに、青筋がひとつ立った。
「三日前だと?」
アルディスは紙片を引っつかんだ。
「うちの物見より早い。関所の報告より早い。どうやって」
「鳩です」
ロザリンドは窓の外を示した。潰れた麦倉——いまは屋根の直った鳩舎の空を、灰色の翼が二つ、旋回していた。
「わたくしの鳩は、峠にも、川湊にも、まだ残っています。報せは、待つものではなく迎えに行くものです。……それで、値の動く前に、ありったけの石塩を買い付けました。連れてきた者たちの路銀と、わたくしの宝石とで」
「配達完了、っと」
後ろでピナが帽子のつばを弾いた。
「買付の代金、峠向こうの塩商まで、あたしが二日で運びました。片道です。ちなみにまだ褒められてません」
アルディスは、紙片とロザリンドの顔を、二度見比べた。家宰と役人たちは、まだ話が呑み込めない顔で固まっている。
「……荷は。荷はいつ着く」
「本日の午後に」
そして実際、午後に着いた。
石塩を積んだ荷車が六台、護送の人足を連れて城市の門をくぐった。荷を率いてきた塩商の親方は、出迎えた家宰に胸を張って言った。
「ヘイルワースの嬢様のお声がかりだ。値は三日前のまま、一枚も上げちゃいねえ。——あの家の頼みを断る塩商は、王国にゃおりませんや」
樽が市場に並ぶと、買い占めた商人たちは当てが外れて値を戻し、塩の相場は夕方には元に落ちた。
空の量り台の前にいた老婆は、朝と同じ値段で塩を量ってもらい、何度も振り返りながら帰っていった。
ロザリンドはその光景を、鳩舎の窓から見ていた。
「お嬢、見なくていいんですか。市場、いまごろお嬢の話で持ちきりですよ」
「見ています」
「そうじゃなくて。出てって、ばーんと名乗るとかですね」
「報せは届きました。塩も届きました」
彼女は帳面に、塩の落ち着いた値を書き入れた。
「それで足ります」
日暮れに、アルディスが一人で鳩舎へ来た。
大男は入口で妙に居心地悪そうに立ち、藁を踏み、鳩に横目で睨まれ、それから、頭を下げた。
「王都を追われた令嬢に何ができる——と言った俺を、殴っていい。あんたの報せが、この領を救った」
「殴りません。手が痛いので」
「……買付の代金は、領庫から返す。宝石も戻せ。利も乗せる。それから」
彼は懐から、彼女の書いた買付指示の写しを出した。荷と一緒に、塩商から回ってきたものだという。
「この字を——」
言いかけて、アルディスは口をつぐんだ。
几帳面な、癖のない字。どこかで見た気がした。ずっと昔。どこだったか。戦場の朝の、冷えた空気の匂いと一緒に、記憶のふちに引っかかっている。
思い出せなかった。彼は首を振って、写しを畳んだ。
「いや。……ひとつだけ聞かせろ。あんたは、何者だ」
ロザリンドは、鳩の翼の付け根を直す手を止めなかった。
「王国の耳、でした」
過去形で、彼女は答えた。
「いまは、失業中です」
予見的中の様式美、一回目です。この方はだいたい三日早いです。
次話は王都側。あちらはまだ、ご自分の耳が失われたことに気づいていません。
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