第2話:伝令たちは、王家ではなく彼女に仕えていた
北へ向かう街道は、王都を離れるほど痩せていった。
雇いの馬車は板張りが軋み、隙間風が足元を刺す。供は御者が一人きり。公爵令嬢の旅装としては、みすぼらしいにも程があった。
ロザリンドは膝の上の黒い手帳に手を置いたまま、窓の外の枯れ野を眺めていた。
最初の異変は、二日目の朝に起きた。
街道沿いの中継駅——駅逓の建物の前に、旅装の男が三人、立っていた。
中の一人、鞍袋を担いだ中年の男が、馬車に歩み寄って帽子を取った。
「北へ行かれるなら、ここから先は道が悪い。先導いたします」
「マルロ」
ロザリンドは窓越しに男を見た。王都の第三中継所の、伝令頭だった男だ。
「腰の具合は」
「へえ。嬢様にいただいた膏薬で、馬に乗れる程度には」
「無理はしないように。奥方が三人目を身ごもっておいでのはずです」
「……よく覚えておいでで」
「伝令の家の子は、伝令の宝です。数え間違えません」
マルロは笑って、帽子をかぶり直した。
「言っておきますが、王家の給金はもう出ませんよ」
「給金で仕えとった訳じゃありませんので」
彼はそれきり理由を言わなかった。三頭の馬が、当然のような顔で馬車の前についた。
——王国の駅逓網は、王家のものである。
建前は、そうだ。だが二十年前の戦乱で焼け落ちた中継所を、私財を投じて建て直したのはヘイルワース公爵家だった。伝令の任免も、訓練も、給金の帳簿も、報せを守る暗号の設計も。父の死んだ七年前からは、そのすべてを、十二歳の娘が黙って引き継いだ。
王家が持っていたのは、名前だけだった。
次の中継駅で、二人増えた。
その次の駅では、駅番の老婆が焼きたてのパンを籠ごと馬車に押し込んできた。
「先代様には、亭主の命を拾ってもらいましたでね。……ああ、お代なんてとんでもない」
老婆は手を振って、それから声を低くした。
「北へお着きになったら、うちの末の倅も使ってやってくださいまし。足だけは速いんです」
三つ目の駅では、四人と、荷馬車が一台。
荷台には藁に埋もれて鳩籠が積まれ、手綱を握る白髭の老人が、ロザリンドを見て目を細めた。
「王都の鳩舎は、空にして参りましたよ」
「ドナウ。あれは王家の鳩です」
「はて。儂が連れてきたのは、嬢様が生まれる前からうちにおる血統だけで。……残りは、まあ、勝手に飛んでいきよるかもしれませんなあ」
老鳩匠はしらじらと空を仰いだ。ロザリンドは何も言わなかった。それが答えだった。
昼の休みに、ドナウが籠をいくつか開けた。
放たれた鳩は羽を伸ばすでもなく、まっすぐロザリンドのところへ来た。肩に二羽。膝に三羽。手元の乾酪を狙うでもなく、ただ、そこに収まった。
「相変わらずですなあ」
ドナウが笑った。焚き火の向こうで、マルロが不思議そうに言った。
「何度見ても、妙なもんです。俺たちが世話しても、ああはならない。餌をやるのは俺たちなのに」
「……鳥の気まぐれです」
ロザリンドはそう言って、一羽の翼の付け根を指でそっと直した。それ以上は語らなかった。
ドナウだけが、何か言いたそうに髭を撫でて、やめた。
三日目の夕方、無人の中継所の前を通った。扉に、風に揺れる貼り紙が一枚。
〈第七、閉めました。鍵は椋鳥の巣の下。行き先は、皆さまと同じ。〉
マルロがそれを読んで、苦笑した。
「……だ、そうです」
馬車の列は、いつの間にか二十人を超えていた。
夜は焚き火を囲み、昼は隊列を組んで進む。護衛のない追放の道行きは、どこかで、引っ越しの行列に変わっていた。
御者だけが、この状況に最後までついていけない顔をしていた。
四日目の焚き火で、マルロがおずおずと訊いた。
「嬢様。北に着いたら、何をなさるおつもりで」
「まず、届く場所を作ります」
ロザリンドは、火の向こうの鳩籠を見た。
「報せは、受け取る者がいて初めて報せになります。籠と、止まり木と、帳場。それから——」
彼女はそこで言葉を切って、集まった顔ぶれを順に見た。伝令が九人。鳩匠が三人。駅番の倅が二人。
「あなたたちの寝床と、給金の当てを」
男たちは顔を見合わせ、誰からともなく笑った。給金の話をされて笑う男たちを、彼女は少し不思議そうに眺めた。
五日目。北の辺境、ヴェイン辺境伯領の城市カルテンの門前で、その行列を待っている者がいた。
鳥打帽の、小柄な少女だった。歳は十六ほど。門柱に寄りかかり、干し杏を齧っている。
馬車が停まると、少女は帽子のつばを弾いて言った。
「遅いですよ、お嬢。鳩舎、もう押さえときました。街の東の、潰れた麦倉。屋根はあたしが直しました。あと晩めしまだです。死にそうです」
「ピナ」
ロザリンドは馬車を降りた。
「あなたには、王都で暇を出したはずです」
「もらってません。聞いてません。あたし、字が読めないんで」
少女は胸を張って嘘をついた。読めないのは本当だが、あの日、鳩舎の壁の貼り紙を誰より早く見ていたのはこの子だ。
マルロが呆れ顔で口を挟んだ。
「ピナ、お前……せっかく王都の駅逓に置いてもらえるよう、俺が頭を下げて」
「王都の駅逓には、戻りません」
声が、一瞬だけ平らになった。
軽口の抜けた、素の声。マルロが口をつぐむ。焚き火の爆ぜるような沈黙が、一拍。
「——死んでも」
それだけ言うと、ピナはもう笑っていた。
「てことで、お嬢。晩めしです。この街、羊の腸詰めがうまいらしいです。偵察済みです」
鳩舎は、なるほど潰れた麦倉だった。
傾いた梁。隙間だらけの板壁。それでも屋根だけは、新しい板で丁寧に葺き直されていた。十六の少女が一人で上ったにしては、ずいぶんな仕事だった。
「……いい鳩舎です」
「でしょ」
ピナは鼻の下をこすった。それから、そっぽを向いて付け足した。
「お嬢の鳩が濡れるの、やなんで」
ロザリンドは、暮れかけた北の空を見上げた。
寒い。痩せた土地だ。王都の灯りは、もうどこにもない。
肩に、鳩が一羽、当然のような顔で降りてきた。
「明日から、止まり木と巣箱を作ります。ドナウ、図面はわたくしが引きます」
「へえ。嬢様の図面なら、間違いはございませんて」
「あのー、お嬢? 晩めしの話、二回しましたよね? あたし」
同じころ、王都。
外務の執務室で、初老の書記官が青い顔をしていた。
隣国レムリアへ送った親書の返事が、期日を六日過ぎても届かない。
「急使は出したのだな」
「確かに出しました。腕のいい者を——いえ、正確には、残っていた者を」
「残っていた者?」
書記官は問い返し、答えを持つ者は部屋にいなかった。
出した急使は、駅逓の道順を知らない新参だった。道順を知る者は、この数日で、なぜか一人残らず職を辞していた。
急使がいまどこにいるのか。そもそも国境に着いたのか。
それを確かめる手段が、王都には、もう残っていなかった。
行き先は、皆さまと同じ。
次話、辺境伯が登場します。「王都を追われた令嬢に何ができる」——三日後、彼は前言を撤回することになります。
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