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第1話:断罪の夜、私は「報告」を止めた

この物語の主人公は、あまり喋りません。

泣きません。取り乱しません。

ただ、王国の誰よりも多くのことを知っています。

——彼女を捨てた人たちだけが、それを知りません。

「ロザリンド・ヘイルワース。貴様との婚約を——破棄する」


 王宮の大広間に、第一王子レオニスの声が響いた。

 楽の音が止まる。数百の視線が、一斉に同じ場所へ向いた。


 大広間の東、太い柱の陰。

 給仕たちの通う扉と、老貴族が密談に使う露台とに挟まれた狭い一角。それが、ロザリンドの定位置だった。夜会のたび、彼女がそこから一歩も動かないので、社交界は彼女をこう呼んだ。

 ——壁の花。


 名指しされた令嬢は、弁明をしなかった。

 ただ、手の中の扇を閉じた。

 乾いた音がひとつ、静まり返った大広間に落ちた。


「殿下……わたくし、ずっと怖かったのです」


 王子の腕に取りすがって、ミレーユ・オルグレン伯爵令嬢が声を震わせた。

 俯いた拍子に、結い上げた金の髪がほつれて頬にかかる。可憐だった。震え方の上手な人だ、とロザリンドは思った。


「ロザリンド様は、皆さまの秘密を、こっそり調べておいでなのです。わたくしの家の文箱にも、開けられた跡がございました。あの方はいつも柱の陰から、皆さまのことを、じっと……」

「証拠もある」


 レオニスが顎で示すと、侍従が羊皮紙の束を高く掲げた。


「ここに写しがある。オルグレン伯爵家の縁談の裏。ダルトン侯爵家の借財の額。グレイル商会の船の損害。——諸家の内情を、この女が盗み見て、書き溜めていた記録だ」


 広間が、今度こそ本当にどよめいた。

 名を読み上げられた家の者たちが青ざめ、それから憎悪のこもった目で柱の陰を見た。読み上げられなかった家の者たちは、自分の家の名が次に出ないことを祈りながら、同じ目をした。

 やはり、あの女。氷の令嬢。陰気な密偵。


 ロザリンドは、掲げられた束を一瞥した。


 紙は東部製の上物。あの厚みを揃えられる工房は三つ。写した手は、癖からみて少なくとも三人。綴じ紐の結び方は、王宮書記局の流儀ではない。

 誰かが、ずいぶんな手間と金をかけて、あれを作った。

 ——誰が。何のために。


 疑問は、そこで畳んだ。この場で考えることではない。


「何か言ったらどうだ」


 沈黙を、レオニスは強がりと取ったらしい。声に苛立ちが混じった。


「三年だ。三年隣に立って、俺は貴様が笑うところを一度も見ていない。茶会に誘えば黙って座り、庭を歩けば黙って歩く。何を考えているのか分からん、氷のような女だ。その陰気が、昔から気に入らなかった」


 扇の陰で、忍び笑いがさざめいた。

 壁際では、彼女の後見を継いだ叔父が、彫像のような顔で床を見ていた。庇う声は、どこからも上がらなかった。彼女はそれを、確かめるでもなく確かめた。


「沙汰を言い渡す」


 レオニスは羊皮紙を広げた。


「婚約の破棄。ならびに、王都からの退去。行き先は北の辺境——ヴェイン辺境伯領とする。かの地で頭を冷やすがいい。誰も、貴様を引き止めん」


 ロザリンドは顔を上げた。


「かしこまりました」


 静かな、平坦な声だった。それから、彼女は付け加えた。


「では、今後王家への"報告"は、すべて止めます」


 レオニスの眉が寄った。


「……何の話だ」

「ご存じなかったのですね」


 彼女はほんの少しだけ、首を傾げた。


「あれは、わたくしの鳩でしたのに」


 それだけ言うと一礼し、彼女は大広間を出た。

 どっと嘲笑が背を追った。負け惜しみですって。鳩ですって。最後まで訳の分からない、陰気な方。

 振り向かなかった。


 長い廊下には、夜会の給仕たちが下がって並んでいた。

 誰も声を出さなかった。ただ、彼女が通り過ぎるとき、盆を持った手が、順々に胸の高さに上がった。伝令が報せを受け取るときの、あの構えだった。

 ロザリンドは歩調を変えずに、一度だけ、小さく頷いた。


 公爵邸の自室で、荷造りは半刻で終わった。


 ドレスは置いていく。宝石は、路銀になる分だけ。

 扉の外から、叔父の声がした。入っては来なかった。


「……家の名に、これ以上の泥を塗るな。それから、当面の暮らし向きは」

「結構です。自分の食い扶持は、自分で稼ぎますので」


 足音が去ってから、彼女は机の抽斗の底板を外し、黒い革の手帳を取り出した。

 表紙に、鳥籠の焼き印がひとつ。

 七年前に死んだ父の、形見だった。中に何が書かれているのか、読める人間は、いまは彼女しかいない。


 表紙の焼き印を、指先でひとつなぞる。

 ——報せはね、ロザリンド。剣より速く、人を守るものだよ。

 父の声は、七年経ってもすり減らなかった。


 手帳を胸元に納めて、ロザリンドは短く息を吐いた。


「……行きましょう」


 誰も見送りに出なかった。それは構わなかった。

 王都で彼女を名前で呼ぶ者は、もともと一人もいなかったのだから。


 夜明け前、雇いの馬車が王都の北門をくぐった。

 御者が気の毒そうに「お寒くはないですか」と声をかけ、それが、この二日で彼女に向けられた唯一の気遣いだった。


「平気です。……北は、もっと寒いのでしょうし」


 王都の塔が背後に遠ざかっていく。

 彼女は、一度も振り返らなかった。


 その夜更け。王都の北の外れ、街道沿いの古い中継所に、一羽の鳩が舞い降りた。


 当直の伝令が慣れた手つきで足環から紙片を抜く。ちいさな紙に、几帳面な字で、こうあった。


〈全所へ。籠を閉じます。鳥と人は、それぞれの判断で。 R〉


 伝令は紙片を三度読んだ。

 それから帽子を脱ぎ、胸に当てて、長いこと立っていた。


「……どうするんです、頭」


 見習いの少年が、不安そうに訊いた。伝令は答える代わりに、壁の暗号台帳を革袋に納め、鳩舎の戸を開け放った。


「嬢様の鳩は、北へ帰る」


 灯りを消しながら、彼は言った。


「俺たちも、だ」


 同じ夜、同じ紙片が、王国じゅうの六十七の中継所に届いていた。


 翌朝。


 王宮の伝書塔に、定時の報告は一通も届かなかった。


 北部国境の駐屯報。東部の相場表。南の関所の通行記録。港に入った船の数。毎朝、夜明けとともに塔を賑わせていた数十の翼が、その朝は一枚も空に見えなかった。


「おかしいな。北の便が一羽も来ん」

「南もです。……嵐でも出ましたか」

「どこの空にだ」


 当直の文官たちは空っぽの受け箱をかわるがわる覗き、首をひねり、結局、年嵩の一人が帳面にこう書いた。


 ——本日、着信なし。鳩の調子が悪いものと思われる。


 書きながら、彼はふと思った。そういえば、鳩の調子とやらを診られる者を、自分は一人も知らない。あの無口な令嬢の周りに、いつも鳥の世話をする者たちがいた気はするが——はて、あれは皆、どこへ行ったのだったか。


 考えは、朝の鐘の音で途切れた。


 それが何を意味するのか。

 王都では、まだ誰も知らない。


お読みいただきありがとうございます。

王宮に報せが届かないのは「鳩の調子」のせいだそうです。しばらく、そういうことにしておきましょう。

次話、追放の馬車が北へ向かいます。——道中、馬車の列がなぜか、だんだん長くなります。

※ブックマークしていただけると、更新の報せが確実に届きます。報せは、確実に届くのが一番ですので。


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