第38話:商館の、丁重な話
サルヴェニアの商館は、湊で二番目に高い建物だった。いちばん高いのは代官所である。二番目であることを、この商館はたぶん誇っている。
通された部屋には、硝子の入った窓があった。この湊で硝子を見たのは、灯台の上と、ここだけである。シメオンは四十がらみの、痩せた男だった。物腰は柔らかく、両手を膝の上で組み、まず茶を勧めた。
「南の葉です。北ではあまり出回りません」
「頂戴します」
茶は、たしかに旨かった。
「支所の板、拝見しております。よい試みです」
「恐れ入ります」
「よい試みは、たいてい続きません」
シメオンは、湯気の向こうで穏やかに笑った。
「無料で配るものには、上がりがありません。上がりのない仕事は、人が減ります。人が減れば、板の中身が薄くなる。薄くなれば、誰も見ない。——三年ほどで、そうなります」
「見立てとしては妥当です」
「でしょう。ですから、御提案がございます」
彼は、卓の上の紙をこちらへ滑らせた。
〈翼の座 湊バルカ支所の窓口を、当商会の代理として運用いただきたく。報せの値は当方にて定め、支所へは月々、定額をお納めいたします〉
金額の欄は、空白だった。
「金額は」
「お書きになる欄です。そちらで」
ロザリンドは、その紙を二度読んだ。二度目のほうが早かった。よくできた文面だった。買収という言葉はどこにも無い。窓口は残り、板も残り、読み上げも続く。変わるのは、値を誰が決めるかだけである。
変わるのがそれだけだから、これは買収なのだ。網も人も鳩も要らない。値を決める場所を一つ譲れば、あとは全部ついてくる。この男は、報せというものの急所を正確に知っている。
「シメオン殿」
「はい」
「同じお話を、一度受けたことがあります」
シメオンが小さく首を傾げた。
「ほう」
「王国の宰相でした。網ごと、東へ売ろうとした人です。あの方も、金額の欄を空けておられました」
「……それは、光栄ですな」
「褒めておりません」
ロザリンドは、紙を卓の中央へ戻した。
「お断りします」
「理由を伺っても」
「はい。一つだけ申します」
彼女は、茶碗を置いた。置く音がしなかった。
「値を決める人が一人だと、報せは嘘になります」
シメオンは、笑みを崩さなかった。
「厳しい言い方をなさる。値を決める者が居らねば、市が立ちません」
「決める人が一人であることと、市が立つことは別です。市は、決める人が多いから市なのです」
「……なるほど」
彼は湯気を吹いた。
「では、別の伺い方をいたします。あの子は、どうなさるおつもりで」
部屋の空気が、変わった。
「あの子」
「旗を振る子です。名はヨナ、と申したかと」
「支所の伝令です」
「伝令」
シメオンは、初めて可笑しそうな顔をした。
「あれは耳ですよ。旗の読める者は、我々が育てて、我々が配しております。船に一人ずつ。沖の報せを取りこぼさぬように」
「育てて、配る」
「はい。手間のかかる仕事です。十のうち、使い物になるのは二人ほどで」
椅子が鳴った。ヨナが立ち上がっていた。顔は動いていない。ただ、両手が、上着の裾を握って白くなっていた。
「……あたし、外にいる」
子供は、返事を待たずに部屋を出ていった。シメオンは、その背中を見送ってから、こちらへ向き直った。
「失礼を。物慣れておらぬ子で」
「シメオン殿」
「はい」
「残りの八人は、どうなさいましたか」
彼は、答えなかった。答えないことが答えだった。ロザリンドは立ち上がり、一礼した。
「茶を、ありがとうございました。南の葉は、たしかに旨うございます」
商館を出ると、日差しが白かった。ヨナは、桟橋の縁に腰かけて足をぶらつかせていた。ピナがその横に座って、何も言わずに干した魚を半分渡していた。ロザリンドは、少し離れて立った。
「ヨナ」
「聞こえてた」
「そうですか」
しばらく、波の音だけがした。
「あたし、九つのときから船に乗せられてた。三年」
ヨナは、魚をかじった。
「読めなくなったら、降ろされる。目が悪くなるやつが多いから。……昼の海、白いから」
「降ろされた人は」
「知らない」
ロザリンドは、それ以上訊かなかった。
「父さんが、迎えに来た。灯台やめて、迎えに来た」
子供は、足を止めた。
「そのあと、落ちた」
波が桟橋の下で二度鳴った。
「北の耳の人」
「はい」
「父さん、海図の裏に帳を書いてた。旗と、灯りと、潮。ぜんぶ」
「ぜんぶ」
「うん。十九年ぶん。……あたし、読めるけど、書き写せない。字が書けないから」
ヨナは、海のほうを向いた。
「だから、置いてきた。海の側に」
ロザリンドは、その言い方を頭の隅に置いた。捨ててきた、でも、失くした、でもない。置いてきた、である。置いた場所を知っている者の言い方だ。
訊けば答えるだろう。だが、いま訊けば、この子は「北の耳の人も、あれが欲しいのか」と思う。そう思わせた瞬間に、この子はまた誰の耳でもなくなる。
「ヨナ。その帳は、いまは要りません」
「……いいの」
「はい。要るようになったら、そのときお願いします」
子供は、少し不思議そうな顔をした。それから、残りの魚を全部かじった。
その夜、支所へ戻ると、掲示板が黒く塗り潰されていた。白墨の文字は一つも残っていなかった。板の下に、刷毛が一本、わざとらしく置いてあった。コリンが青くなった。
「嬢様、これ……」
「板を洗いなさい。明日の朝に間に合わせます」
「間に合いますか」
「間に合わせます。読み上げは、板が無くてもできます」
断りました。金額の欄は空白のままです。
次話、鳩が落ち始めます。伝令が一人、崖から落ちます。
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