↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
37/49

第37話:旗の稽古

 支所は立った。板は出た。読み上げも始まった。それでも、ロザリンドは帳面の前で考え込んでいた。


「マルロなら、ここで何と言うでしょうね」

「へえ、って言いますね」とピナ。「で、そのあと『嬢様、片道ですぜ』って」

「そのとおりです」


 いまの支所は、海から来た報せを陸へ流すことしかできない。逆ができない。沖の船に何かを伝えようとしても、こちらには振る手がない。

 鳩は、岸が見えるところまでしか行かない。海の上には帰る鳩舎が無いからだ。


「ヨナ」

「なに」

「旗を、教えていただけますか」


 ヨナは、干した魚をかじりながら、少し考えた。


「ピナに?」

「わたくしにも。ですが、まずピナに」

「なんであたし」とピナ。

「あなたがいちばん腕が長くて、いちばん覚えが早いからです」


 ピナは満更でもない顔をして、それから急に慌てた。


「あ、待ってください、褒められました? 今のは褒められましたよね」

「事実を言いました」

「事実って形で褒めるの、ずるいと思います」


 稽古は、翌朝から始まった。場所は桟橋の突堤。ヨナが立ち、ピナが向かい合う。短い棒の先に、赤と白の布を結んだものを二本ずつ。


「まず、形」


 ヨナが両腕を真横に張った。


「これが『あ』の形。片方を上げると『か』の形。上げるほうを替えると『さ』の形」

「え、いま三つ増えました?」

「まだ増える」

「待って、待ってください、いま指が」


 ヨナは容赦しなかった。


「次、色。赤が上だと『問い』。白が上だと『答え』。色を替えないと、聞いてるのか言ってるのか分からない」

「なるほど」

「最後、高さ。肩の高さは近くの船。頭より上は遠くの船。下は『あんたじゃない』」


 ピナが腕を止めた。


「……三つ、いっぺんに?」

「うん。形と色と高さで、一語」


 ロザリンドは、少し離れた石に腰かけて、それを見ていた。封蝋と、同じである。蝋の色と、印章の傾きと、割り方。三つ揃って初めて一つの意味になる。父が十年かけて組んだものと、海の誰かが組んだものが、同じ形をしていた。

 人が遠くへ何かを伝えようとすると、たぶん、行き着く先は似るのだろう。届く距離を稼ぐには、少ない材料をいくつも掛け合わせるしかない。声も紙も届かない場所へ意味を送るとき、人にできるのは、そういう組み合わせだけである。

 ただし、封蝋には辞書があった。父が書き、彼女が引き継ぎ、いまはギルドの帳場に写しが三部ある。中継所の番人が代わっても、辞書があれば読み方は続く。


 旗語には、それが無い。ヨナの頭の中にしか無い。

 この子が明日いなくなれば、この湊で旗の読める者は、また一人もいなくなる。


「もういっぺん」

「はい」

「違う。肩が下がってる。それだと『あんたじゃない』になる」

「厳しくないですか、先生」

「先生じゃない」


 昼までに、ピナは十二の形を覚えて、九つを間違えた。


 夕方には、二十四の形を覚えて、四つを間違えた。


 日が落ちるころ、ヨナが初めて「まあまあ」と言った。ピナが突堤で万歳をして、危うく海に落ちかけた。

 ロザリンドは、その日のうちに稽古を紙へ落とした。ヨナが読み上げ、ピナが腕で確かめ、彼女が書く。三人がかりで、半日かかって一枚になった。


〈旗語 覚え書き(第一)

 形=腕の張り方。横に張る/片方を上げる/上げる側を替える。ここまでで三十四。

 色=赤が上なら問い、白が上なら答え。

 高さ=肩は近場の船、頭上は遠くの船、腰より下は「あなた宛てではない」。

 右の三つが揃って、ようやく一語。——翼の座 湊バルカ支所 書き取り〉


 紙の隅に、ロザリンドは小さく書き足した。〈これは覚え書きであって、辞書ではない。辞書はまだ、こちらに無い〉。

 宿へ戻る道で、ピナが上着の袖をまくって見せた。腕が赤く腫れている。


「お嬢。これ、明日上がりますかね」

「上がりません。二日は痛みます」

「ですよね」


 それから、ピナは急に足を止めた。


「……お嬢。あの子、あたしに教えるとき、いっぺんも紙を使いませんでした」

「はい」

「ぜんぶ、口と体で」


 ピナは、自分の腕を見ていた。


「あたし、半年前まで『て』と『と』しか書けませんでした。字が読めないのがどれだけ不便か、いちばん最近まで知ってたの、たぶんあたしです」


 ロザリンドは、答えなかった。答えの代わりに、宿の卓に紙と筆を出して置いた。


 夜、ヨナが魚をかじりに部屋へ来たとき、ピナはその紙の前に座っていた。


「ヨナ。座って」

「なに」

「交換です。あたし、旗を教わりました。だから字を教えます」


 ヨナが、あからさまに嫌な顔をした。


「いい」

「よくないです」

「旗は覚えられる。字は無理」

「なんで無理なんですか」

「……見てると、動く」


 ピナは、そこで何も言い返さなかった。言い返さずに、筆を取って、紙に大きく二文字書いた。ヨナの名前である。


「これ、あんたの名前です。名簿に書いたのと同じ形」

「知ってる。なぞったから」

「じゃあ、これは」


 ピナは、その隣に別の二文字を書いた。


「あたしの名前です。ピナ。……これだけ覚えてください。今日はこれだけ」


 ヨナは、しばらくその二つを見比べていた。


「なんで、二つ書いたの」

「一つだと、自分のが正しいか分かんないでしょ。二つあると、違いが見えます。あたし、そう習いました」


 ヨナが筆に手を伸ばした。伸ばして、途中で止めて、また膝に戻した。


「明日」

「はい。明日で」


 その翌日、稽古の途中だった。

 沖に、帆が三つ現れた。ヨナが手を止め、目を細めた。それから、旗を下ろした。ゆっくりと、音を立てないように。三隻の帆柱に、旗が上がっている。ロザリンドには読めない並びである。


「ヨナ。何と言っていますか」


 子供は答えなかった。


「ヨナ」

「……『耳を、寄越せ』」

教える側と教わる側が、ひっくり返りました。

次話、上等な茶と、丁重な買収の話が来ます。断り方は決まっています。

※ブックマークは肩の高さで結構です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。