第37話:旗の稽古
支所は立った。板は出た。読み上げも始まった。それでも、ロザリンドは帳面の前で考え込んでいた。
「マルロなら、ここで何と言うでしょうね」
「へえ、って言いますね」とピナ。「で、そのあと『嬢様、片道ですぜ』って」
「そのとおりです」
いまの支所は、海から来た報せを陸へ流すことしかできない。逆ができない。沖の船に何かを伝えようとしても、こちらには振る手がない。
鳩は、岸が見えるところまでしか行かない。海の上には帰る鳩舎が無いからだ。
「ヨナ」
「なに」
「旗を、教えていただけますか」
ヨナは、干した魚をかじりながら、少し考えた。
「ピナに?」
「わたくしにも。ですが、まずピナに」
「なんであたし」とピナ。
「あなたがいちばん腕が長くて、いちばん覚えが早いからです」
ピナは満更でもない顔をして、それから急に慌てた。
「あ、待ってください、褒められました? 今のは褒められましたよね」
「事実を言いました」
「事実って形で褒めるの、ずるいと思います」
稽古は、翌朝から始まった。場所は桟橋の突堤。ヨナが立ち、ピナが向かい合う。短い棒の先に、赤と白の布を結んだものを二本ずつ。
「まず、形」
ヨナが両腕を真横に張った。
「これが『あ』の形。片方を上げると『か』の形。上げるほうを替えると『さ』の形」
「え、いま三つ増えました?」
「まだ増える」
「待って、待ってください、いま指が」
ヨナは容赦しなかった。
「次、色。赤が上だと『問い』。白が上だと『答え』。色を替えないと、聞いてるのか言ってるのか分からない」
「なるほど」
「最後、高さ。肩の高さは近くの船。頭より上は遠くの船。下は『あんたじゃない』」
ピナが腕を止めた。
「……三つ、いっぺんに?」
「うん。形と色と高さで、一語」
ロザリンドは、少し離れた石に腰かけて、それを見ていた。封蝋と、同じである。蝋の色と、印章の傾きと、割り方。三つ揃って初めて一つの意味になる。父が十年かけて組んだものと、海の誰かが組んだものが、同じ形をしていた。
人が遠くへ何かを伝えようとすると、たぶん、行き着く先は似るのだろう。届く距離を稼ぐには、少ない材料をいくつも掛け合わせるしかない。声も紙も届かない場所へ意味を送るとき、人にできるのは、そういう組み合わせだけである。
ただし、封蝋には辞書があった。父が書き、彼女が引き継ぎ、いまはギルドの帳場に写しが三部ある。中継所の番人が代わっても、辞書があれば読み方は続く。
旗語には、それが無い。ヨナの頭の中にしか無い。
この子が明日いなくなれば、この湊で旗の読める者は、また一人もいなくなる。
「もういっぺん」
「はい」
「違う。肩が下がってる。それだと『あんたじゃない』になる」
「厳しくないですか、先生」
「先生じゃない」
昼までに、ピナは十二の形を覚えて、九つを間違えた。
夕方には、二十四の形を覚えて、四つを間違えた。
日が落ちるころ、ヨナが初めて「まあまあ」と言った。ピナが突堤で万歳をして、危うく海に落ちかけた。
ロザリンドは、その日のうちに稽古を紙へ落とした。ヨナが読み上げ、ピナが腕で確かめ、彼女が書く。三人がかりで、半日かかって一枚になった。
〈旗語 覚え書き(第一)
形=腕の張り方。横に張る/片方を上げる/上げる側を替える。ここまでで三十四。
色=赤が上なら問い、白が上なら答え。
高さ=肩は近場の船、頭上は遠くの船、腰より下は「あなた宛てではない」。
右の三つが揃って、ようやく一語。——翼の座 湊バルカ支所 書き取り〉
紙の隅に、ロザリンドは小さく書き足した。〈これは覚え書きであって、辞書ではない。辞書はまだ、こちらに無い〉。
宿へ戻る道で、ピナが上着の袖をまくって見せた。腕が赤く腫れている。
「お嬢。これ、明日上がりますかね」
「上がりません。二日は痛みます」
「ですよね」
それから、ピナは急に足を止めた。
「……お嬢。あの子、あたしに教えるとき、いっぺんも紙を使いませんでした」
「はい」
「ぜんぶ、口と体で」
ピナは、自分の腕を見ていた。
「あたし、半年前まで『て』と『と』しか書けませんでした。字が読めないのがどれだけ不便か、いちばん最近まで知ってたの、たぶんあたしです」
ロザリンドは、答えなかった。答えの代わりに、宿の卓に紙と筆を出して置いた。
夜、ヨナが魚をかじりに部屋へ来たとき、ピナはその紙の前に座っていた。
「ヨナ。座って」
「なに」
「交換です。あたし、旗を教わりました。だから字を教えます」
ヨナが、あからさまに嫌な顔をした。
「いい」
「よくないです」
「旗は覚えられる。字は無理」
「なんで無理なんですか」
「……見てると、動く」
ピナは、そこで何も言い返さなかった。言い返さずに、筆を取って、紙に大きく二文字書いた。ヨナの名前である。
「これ、あんたの名前です。名簿に書いたのと同じ形」
「知ってる。なぞったから」
「じゃあ、これは」
ピナは、その隣に別の二文字を書いた。
「あたしの名前です。ピナ。……これだけ覚えてください。今日はこれだけ」
ヨナは、しばらくその二つを見比べていた。
「なんで、二つ書いたの」
「一つだと、自分のが正しいか分かんないでしょ。二つあると、違いが見えます。あたし、そう習いました」
ヨナが筆に手を伸ばした。伸ばして、途中で止めて、また膝に戻した。
「明日」
「はい。明日で」
その翌日、稽古の途中だった。
沖に、帆が三つ現れた。ヨナが手を止め、目を細めた。それから、旗を下ろした。ゆっくりと、音を立てないように。三隻の帆柱に、旗が上がっている。ロザリンドには読めない並びである。
「ヨナ。何と言っていますか」
子供は答えなかった。
「ヨナ」
「……『耳を、寄越せ』」
教える側と教わる側が、ひっくり返りました。
次話、上等な茶と、丁重な買収の話が来ます。断り方は決まっています。
※ブックマークは肩の高さで結構です。




