第36話:海の窓口
湊バルカへ戻る道で、ロザリンドは一言も喋らなかった。
当直帳の写しは取っていない。番人の名も書いていない。手元にあるのは、三夜の当直が同じ二人だったという事実と、〈異状なし〉の四文字が後から書かれているという事実だけである。
代官所に持ち込めば、組合が「霧の夜のことは誰にも分からん」と言う。それで終わる。海のことは海の者が決めるからだ。
彼女は、その勝負をしないことにした。
告発というのは、相手の土俵に上がることだ。上がった以上、審判は相手が選ぶ。去年それをやらなかったから、宰相は沈んだ。握り潰す力を持っている相手には、握り潰せないものを配るほうが早い。
問題は、この湊で握り潰せないものが何か、である。証拠ではない。証拠は一枚しかない。
握り潰せないのは、毎朝ただで配られるもののほうだ。
「コリン。中継所の前の空き地は、誰のものですか」
「代官所の地面です。使用の願いを出せば、月に銀二枚で」
「出しなさい。それから、板を一枚。組合のものと同じ大きさで」
三日後、翼の座 湊バルカ支所の掲示板が、桟橋に立った。組合の板とは、桟橋を挟んでちょうど向かい合う位置である。ロザリンドが選んだのではなく、そこしか空いていなかった。
最初の朝、白墨で書かれたのは四行だった。
〈本日 入港見込/潮の刻限/沖の空模様/夜の沿岸の可否
翼の座 湊バルカ支所 朝と夕の二度 読み上げます お代はいただきません〉
人は集まらなかった。
二日目も、三日目も、板の前に立ったのは、あの帆に継ぎの当たった船の船主と、その仲間が二人だけだった。
「お嬢。誰も来ませんね」
「来ます」
「根拠は」
「ただだからです」
四日目の朝、ピナが台に立って読み上げていると、聞いていた人数が十を超えた。五日目は三十を超えた。六日目には、台の下で誰かが「もういっぺん」と叫び、ピナが二度読んだ。
読み上げの後半に、ヨナが加わったのは七日目である。彼女は台に上がらなかった。台の脇に立って、読み上げが終わるたび、沖に向かって短い棒の旗を振った。
「何を振っているのですか」
「同じこと。沖にも要るでしょ」
ロザリンドは、その日の帳面にこう書いた。〈本日より、報せは陸だけでなく海へも出す〉。
組合の板の数字が動いたのは、十日目だった。
〈時化の見立て 先渡し 銀八枚〉
半分に落ちた。落としてもなお、無料の板が向かいにある。次の日は銀五枚になり、その次の日、白墨の行がひとつ消えた。
ガレトが支所へ来たのは、その日の夕方である。彼は挨拶をしなかった。卓の前に立ち、しばらく黙ってから、太い指で自分の胸を叩いた。
「四十人、食えなくなる」
「はい」
「あんたは、うちを潰しに来たのか」
「いいえ」
ロザリンドは帳面を閉じ、まっすぐに見上げた。
「わたくしが要らないと申し上げたのは、値のほうです。あなた方の腕ではありません」
ガレトの眉が動いた。
「腕」
「四十年、この湊の潮を読んできた人が四十人います。翼の座には一人もいません。——見立てを書ける人が、こちらには居ないのです」
彼女は、卓の上の白墨を押し出した。
「明日から、支所の板を書いていただけませんか。給金は月ごと、日雇いではなく、月ごとにお払いします。書いたものは、ただで配ります」
「……ただで配るものを、金を払って書かせるのか」
「はい」
「商いになるか、それで」
「なりません。ですので、入港の見込みと潮の刻限は、これまでどおり値をつけて売ります。売れる報せの上がりで、死ぬ報せを配ります」
ガレトは、白墨をつまみ上げた。指の間で二度、転がした。
「……四十年やってきた仕事に、初めて月給の話をされた」
「遅くなりました」
「あんた、いくつだ」
「二十歳です」
彼は「ふん」と鼻を鳴らし、白墨を懐に入れて出ていった。翌朝、支所の板には、ロザリンドの知らない筆跡で、こう書き足されていた。
〈明後日より三日、返し潮。北へ出る船は日の出前に出よ。——ガレト〉
その日の夕方、伝令名簿を出させた。表紙をめくると、一行目にテトの名がある。三年前に死んだ、王都駅逓の孤児伝令の名前だ。二行目からが、いま生きている者たちの名である。ロザリンドは、筆をピナへ渡した。
「え。あたしがですか」
「はい」
ピナは筆を受け取って、しばらく持て余していた。それから、ヨナを手招きした。
「ヨナ。名前、書くよ」
「……あたし、書けない」
「知ってます。だから、あたしが書きます」
ピナは、名簿の最後の空いた行に、ゆっくりと二文字を書いた。線が少し震えた。半年前まで「て」と「と」しか書けなかった手である。
「はい、ヨナ。——名前があるやつは、ここでは荷物じゃないです」
ヨナは、名簿を覗き込んだまま動かなかった。長いこと動かなかった。それから、指で自分の名前をなぞった。読めない字を、形として覚えるみたいに、何度もなぞった。
「これが、あたし?」
「そうです」
「……ふうん」
その夜、支所に一通が届いた。上等な紙で、封蝋は青みがかった深緑。印は、錨と天秤を組み合わせた紋である。
〈翼の座 湊バルカ支所 御中。当商館主シメオンより、御挨拶かたがた一献差し上げたく。日は御随意に。——サルヴェニア〈海務商会〉〉
ロザリンドが紋を見せると、ヨナが、椅子ごと後ろへ下がった。顔から色が消えていた。名簿を見ていたときの子供とは、別の子供の顔だった。
「ヨナ」
「……その紋、船に付いてた」
「どの船ですか」
「あたしが、乗せられてた船」
海の窓口が開きました。値は消え、名簿に一行増えました。第二部・第一の区切りです。
次話から、旗の稽古が始まります。教える側と教わる側が、ひっくり返ります。
※ブックマークに封は要りません。真贋も保証します。




