第35話:鴎岬の、灯り
鴎岬までは、湊から馬で半日だった。道は途中から海沿いになり、崖の上を細く伸びる。左は草、右は落ちれば終わりの高さである。ピナが「これ、鷲返しより性質が悪いです」と言った。岬の突端に、白い塔が立っていた。
思っていたより低い。三階建ての石塔で、上に硝子の部屋が乗っている。塔のふもとに小屋があり、油の樽が積んであった。
番人は二人いた。ひとりは老人、ひとりは三十がらみの男である。ロザリンドが名乗ると、若いほうが露骨に嫌な顔をした。
「王領の灯台だ。組合の許しがなきゃ、中は見せられん」
「灯台は代官所の管ではありませんか」
「管は代官所。回すのは組合だ」
これで話は終わりだった。当直帳を見せろと言えば、なおさら見せない。ロザリンドは押さなかった。押さずに、塔の外側をゆっくり一周した。
「ピナ。硝子の部屋の内側に、布が畳んで掛けてあります」
「布?」
「厚い、黒っぽい布です。三枚」
「掃除用じゃないんですか」
「掃除の布は、光の当たる側には掛けません。焦げますので」
ヨナは、塔を見上げたまま動かなかった。ここへ来る道中も一言も喋らず、馬車の隅で膝を抱えていた。
この子は、灯台に近づくにつれて口数が減った。減り方に法則があった。塔が見えたところで喋らなくなり、油の匂いがしたところで足が止まる。
ロザリンドは、それを見て何も訊かなかった。訊けば答えるだろうが、答えさせるのは、こちらの都合である。
その子が、ふいに小屋の脇へ歩いていった。積んだ樽の陰から、短い棒を二本拾う。旗はない。棒だけである。
「見せる」
ヨナは、その棒を塔の壁に立てかけた。それから、上着を脱いで、両手で広げた。
「灯りは、点いてるか消えてるかしかない。だから、間で喋る」
彼女は上着を持ち上げ、日の光を背に、影を作った。長く。次は短く。短く。また長く。
「長いのが一つ。短いのが二つ。これで一語」
「間の長さが、文字になるのですね」
「うん。短短長で『岩』。長短長で『寄るな』。……三度またたくのは」
ヨナの手が止まった。
「『こちらへ寄れ』」
ロザリンドは、その手の動きを目で追っていた。追いながら、頭の中では別のことが動いていた。
封蝋の色と、同じだ。緋と藍と黒。色そのものに意味はなく、決めた者と決められた者の間にだけ意味がある。灯りは色を持たないから、代わりに間で語る。それだけの違いである。
違いは、もう一つあった。封蝋は、割られるまで嘘をつけない。灯りは、点いた瞬間から嘘をつける。
「ヨナ。灯台の当直は、毎晩ここに書かれますか」
「書く。何刻に点けて、何刻に油を足して、何刻に消したか」
「どこに」
「小屋の、棚のいちばん下」
夕方まで、ロザリンドは崖の草の上に座って、海を見ていた。
沖を通る船は、岬にさしかかると必ず一度、舳先を外へ振る。岩を避けているのだ。避けられるのは、そこに岩があると知っているからで、知っているのは灯りが報せているからである。
この塔は、二十年、そうやって船を外へ押してきた。押す代わりに引くのは、たぶん、難しいことではない。難しくないから、誰かが思いついたのだろう。
その夜、ロザリンドは番人の小屋の前で、じっと待った。
夜半、若いほうの番人が塔から降りてきて、小屋に入った。ロザリンドは扉を叩き、代官所の名で当直帳の提示を求めた。
「だから、組合の——」
「代官所の紹介状です」
彼女は、アルディスの紹介状ではなく、コリンに走らせて取ってきた一枚を出した。湊の代官の署名がある。リンデンの一件以来、この国の代官所というものは、翼の座に対して妙に丁寧だった。
当直帳は、五年ぶんが一冊にまとまっていた。
ロザリンドは、三つの日付を開いた。八月の〈鵜〉の夜。一月の〈灰鷺〉の夜。四月二十七日の〈青鷺〉の夜。
三夜とも、当直はこの若い番人と、もう一人だった。
〈八月十一日 夜半 霧濃し 異状なし 点灯定刻 消灯定刻〉
字は整っている。整いすぎている。
「ピナ。灯りを近づけて」
ロザリンドは、頁を斜めに傾けた。紙の凹みを、光が拾う。
「……この行だけ、上から書いています」
「え?」
「〈異状なし〉の四文字が、他の行より浅い。書いた日と、書いた道具が違います。ペン先が新しい」
番人の顔から、血の気が引いていった。ロザリンドは、当直帳を閉じた。閉じてから、静かに言った。
「あなたが書いたのですか」
「……知らん。俺は、言われたとおりに」
「何を言われましたか」
「知らんと言ってる!」
男は帳を奪い返そうとしたが、ロザリンドは渡さなかった。渡さずに、そのまま卓へ置いた。奪うつもりが最初から無いと分かる置き方だった。
「取り上げません。写しも取りません」
彼女は一歩下がった。
「あなたの名前も、まだ帳面に書いていません」
男は、荒い息のまま、その言葉を飲み込むのに数秒かかった。
「……何が、望みだ」
「三夜、この灯台がどう回ったかを、あなたの口から伺いたいだけです」
男は答えなかった。答えないまま、卓の縁を掴んでいた。その沈黙のあいだに、ロザリンドは硝子の部屋を見上げた。灯りは、いまも八つ数えて一度、正直に回っている。だが、あの布が三枚ある。
「ピナ。帰りましょう」
「え、聞き出さないんですか」
「今日はここまでです。——この方は、明日から眠れません。眠れない人は、いずれ喋ります」
馬に乗る間際、ヨナが初めて口を開いた。
「北の耳の人」
「はい」
「父さんは、あの布を燃やそうとして、落ちた」
灯りは間で喋り、間で嘘をつきます。証拠は当直帳一冊。まだ足りません。
次話、彼女は告発しません。代わりに窓口を開けます。第二部・最初の区切りです。
※ブックマークは八つ数えて一度、回り続けます。




