第34話:値のつく報せ、つかない報せ
翌朝、桟橋には人だかりができていた。組合の板の前である。白墨の数字を、船主たちが黙って見上げている。
〈本日 時化の見立て 先渡し 銀十五枚〉
値は昨日より三枚上がっていた。上がった理由は板に書かれていない。書かれていないが、上がったということはそういうことだ、と皆が分かる。
「お嬢。あれ、みんな買うんですか」
「買える人が買います」
実際、買った船から順に舫いを解いていった。帆の大きな、船腹の深い船である。残ったのは小さな漁船と、一本帆柱の沿岸船だった。
その一隻の船主が、板の前で長いこと立っていた。四十がらみの、痩せた男である。財布を出し、中を見て、また戻した。それから何も言わずに自分の船へ戻り、舫いを解いた。
「……出るんですか、あの人」
「出ます。出なければ、今日の分が入りませんので」
ロザリンドは、その船を見送った。帆に継ぎが三つ当たっていた。値がついている、ということ自体は罪ではない。翼の座も、旬ごとに銀三枚で相場報を売っている。報せには人手がかかり、人手には飯がかかる。ただでは続かない。
だが、値というものには一つ性質がある。値は、払える者と払えない者を分ける。それだけの仕事しかしない。
相場報なら、分けられた側は損をするだけで済む。時化の見立ては、そうではない。
昼前に、コリンが息を切らして中継所へ駆け込んできた。
「嬢様! 沖の雲が、いつもと違うと」
「誰が言いましたか」
「うちの荷を運んでる船頭です。組合には出さない、と」
「なぜ」
「出したら、組合の見立てになるので。……あの人ら、自分で見たものは自分で使うんです」
ロザリンドは、中継所の窓を開けた。南の空の下のほうが、うすく濁っている。ドナウなら膝で言い当てるところだ。
「コリン。この湊で、字の読めない人はどのくらいいますか」
「……多いです。半分は超えます」
「では、板は最初から、半分の人には無いのと同じですね」
彼女は帳面を開き、二行だけ書いた。カルテンでも同じことをした。字の読めない者のために、朝晩二度、市の相場を読み上げる役を置いた。あれはピナが言い出したことだ。「板に書いても、読めない人には無いのと同じですよ」と。
役は、いまも続いている。続いているということは、要る仕組みだったということである。
「ピナ」
「はい」
「市の広場に台はありますか」
「魚の競りの台なら。朝いちで空きます」
「借りなさい。銅貨で足ります」
ピナが目を丸くした。
「……お嬢、まさか」
「読み上げます」
昼の鐘が鳴ったころ、競りの台にピナが立った。帽子のつばを弾き、大きく息を吸う。
「——翼の座から、本日の見立てです! ただでーす!」
人が振り向いた。ピナは紙を広げ、ゆっくり読み上げた。
〈南南西に濁り。夕刻より風強し。日没以降、沿岸の小船は出るべからず。翼の座 湊バルカ中継所〉
「もういっぺん言います! 日没からあと、小さい船は出ちゃ駄目です! ただです! お代はいりません!」
台の下で、誰かが笑った。誰かが笑わなかった。笑わなかったほうが、走り出した。
夕刻、風は見立てのとおりに強くなった。
日没前に、沖から小船が次々と戻ってきた。舫いを打つ音が、いつもより早い刻限に、いくつも重なった。帆に継ぎの当たった船も、その中にいた。
組合の館の扉が開いたのは、そのあとである。
「あんた、何のつもりだ」
ガレトが桟橋を大股で来た。日に焼けた首が、赤くなっている。
「見立てを配りました」
「ただでか」
「はい」
「うちの飯の種を、ただで撒いたな」
「撒きました」
ガレトは、拳を一度握って、開いた。殴る男ではない。ただ、殴りたい顔ではあった。
「うちは組合だ。四十人の水先人が食ってる。あんたは北の金持ちだから、ただで撒いて偉そうにできる。こっちは明日の飯が減る」
「減ります」
「……分かってて言ってるのか」
「はい」
ロザリンドは、板のほうを見た。白墨の数字は、まだ残っていた。
「ガレト殿。値のつく報せは、わたくしも商います。入港の見込みも、潮の刻限も、相場も。翼の座は慈善の店ではありません」
彼女は、そこで一度言葉を切った。
「ですが、人が死ぬ報せに、値はつけません」
「……綺麗事だ」
「はい。綺麗事です」
ガレトが、初めて言葉に詰まった。
「わたくしの父は、その綺麗事で駅逓を六十七所まで広げて、死にました。わたくしは続きをしているだけです」
ガレトは長いこと黙っていた。それから、板を親指で示した。
「……今日、何隻戻った」
「十九隻です」
「十九か」
彼はそれきり何も言わず、館へ戻っていった。扉は、閉めるというより、置くように閉じられた。
その夜、宿の窓に石が当たった。小さな音だった。ピナが飛び出していったが、路地に人影はなかった。翌朝、中継所の鳩舎で、鳩が一羽、羽をむしられて床に落ちていた。生きてはいた。コリンが唇を噛んだ。
「……組合ですか」
「違います」
ロザリンドは、鳩を両手で持ち上げた。羽の抜け方を見て、傷の位置を見て、それからそっと籠へ戻した。
「あの方なら、正面から来ます。石は投げません」
「じゃあ、誰が」
「昨日、板を見ていた人の中に、船主でも水先人でもない人が三人いました」
彼女は、鳩舎の窓から桟橋の奥を見た。組合の館の、さらに向こう。石造りの、いちばん大きい建物である。
「あれが、サルヴェニアの商館ですね」
値のつく報せと、つかない報せ。彼女が線を引きました。
次話、鴎岬の灯台へ登ります。灯りの喋り方を教わります。
※ブックマークの見立ては、いつでも無料です。




