第33話:灯が、嘘をつく
宿の二階に卓を借りた。窓を開けると、湊の灯りと、その向こうの黒い海が見える。子供は敷居の内側で立ち止まったまま、入ろうとしなかった。
「あんた、誰」
「ロザリンド・ヘイルワースと申します。北で、報せを運ぶ店をしております」
「北の、耳の店」
「はい」
子供の肩から、力が抜けた。抜けた分だけ、疲れが出たように見えた。
「……ヨナ」
「ヨナ。お名前ですね」
「うん」
ピナが黙って椅子を引き、その上に自分の上着を敷いた。ヨナはしばらく迷ってから、そこに座った。ロザリンドは、七列の紙を卓の中央に置いた。
「読んでいただけますか」
「読める。けど、ゆっくりね」
ヨナは指を紙に置いた。
「これ、旗の形。上が形で、下が数。ここで一回切れて、ここからが宛先」
指が滑る。ピナが横から筆を構えた。ロザリンドが言うより先に、書き取る役を買って出ていた。
「一列目。『灯が』」
「はい」
「二列目、『嘘を』。三列目、『つく』」
筆の音だけがした。
「四列目、『牙瀬に』。五列目、『三度』」
「牙瀬」
「岩。湊の外の、二里くらい先。夜は見えない」
ヨナの指が、六列目に移った。
「『北の耳へ』。……七列目は、名前」
そこで、指が止まった。
「『エイナルの娘』」
ロザリンドは、書き取られた紙を手に取った。
〈灯が嘘をつく。牙瀬に三度。北の耳へ。エイナルの娘〉
二十字に満たない。一か月、彼女はこれを読めなかった。
十五の子供が、十を数える間に読んだ。鍵というのは、そういうものだ。持っている者には短く、持たない者には永遠に届かない。父が封蝋の色を思いついたときも、たぶん同じことを考えたのだろう。
「ヨナ。エイナルというのは」
「父さん」
「お父上は、いまどちらに」
ヨナは答えなかった。膝の上で、指の先を一度だけ固く握った。それだけだった。ロザリンドは、それ以上訊かなかった。訊かないことのほうが多い人である。
「では、別のことを伺います。『牙瀬に三度』とは、何が三度ですか」
「船。三度、沈んだ」
「この一年で」
「うん」
ピナが顔を上げた。
「三度も? 同じ岩に?」
「霧の夜。ぜんぶ霧の夜」
三度という数が、ロザリンドの手を止めた。
一度は事故である。二度は不運である。三度は、設計だ。父の帳に十年ぶん残っている街道の事故の記録でも、同じ場所で三度というのは一件しかなく、その一件は橋の普請の手抜きだった。自然は、そこまで律儀に同じ場所を選ばない。
ロザリンドは、コリンを呼んだ。中継所の帳から、この一年の沈没の報せを全部持ってこさせる。三枚あった。
〈商船〈鵜〉沈没。牙瀬。霧。八月〉
〈王国船〈灰鷺〉沈没。牙瀬。霧。一月〉
〈王国船〈青鷺〉沈没。牙瀬。霧。四月二十七日〉
三枚とも、末尾に同じ一行が添えられていた。〈組合の検分により、霧による事故と認む〉。
「コリン。この検分は、誰が」
「水先人組合です。海の事故は、全部あそこが見立てて、代官所に上げます」
「上げた先で、誰かが検め直しますか」
「……いえ。海のことは組合しか分かりませんので、そのまま通ります」
ロザリンドは、三枚を横に並べた。それから、卓の端に置いてあった相場報の束を引き寄せた。
「ピナ。この三隻の積荷を」
「え、積荷ですか。沈んでますよ」
「沈んだのは船です。積荷は、浮きます」
ピナが束をめくる。三隻の荷目録は、いずれも組合の検分書に写しが添えられていた。〈鵜〉は葡萄酒と羊毛。〈灰鷺〉は油と胡椒。〈青鷺〉は油と、細工物の銀。
そして、三枚とも同じ場所に同じ文字があった。
〈拾得物、湊の商館へ引渡し済〉
「商館とは」
「サルヴェニアの商館です」とコリン。「湊でいちばん大きいところで」
「三度とも、同じ商館ですか」
「……はい。言われてみれば」
ヨナが、初めて自分から口を開いた。
「拾ってるんだよ」
「拾う」
「灯で、岩に寄せて、沈めて、浮いたのを拾ってる」
卓の上の灯りが、風で一度揺れた。
「ヨナ。『灯が嘘をつく』とは、灯台のことですね」
「うん。鴎岬」
「灯台は、何を報せるものですか」
「ここに岩があるから寄るな、って報せる。……逆にもできる」
ピナが筆を置いた。置いてから、置いた自分の手を見ていた。
「……お嬢。それ、ぜんぶ本当なら」
「はい」
沈んだ船の名を、ロザリンドはもう一度読み上げなかった。〈鵜〉に八人、〈灰鷺〉に十四人、〈青鷺〉に十一人。救われたのは、そのうち二十一人である。
残りは、灯りを信じて舵を切った。ロザリンドは、三枚の検分書をそろえた。角をきちんと合わせて、重ねた。
「霧の夜に、三度、船を呼んだ人がいます」
窓の外では、湊の灯りが並んでいた。桟橋の常夜灯、船の舷灯、丘の上の家々。どれも、そこにあることを正直に報せている灯りだった。
その並びの、いちばん端。丘の切れたところに、ひときわ遠く、白い光が一つ、規則正しく回っていた。
「あれが、鴎岬ですか」
「うん」
ヨナが窓の外を見ないまま言った。
「父さんが、二十年、灯してた」
ロザリンドは、光の回る間を数えた。八つ数えて一度、八つ数えて一度。狂いはない。あの光は、いまは正直だった。
「ヨナ。もう一つだけ伺います。あなたはなぜ、返事の来ない旗を、毎日振っていたのですか」
「振らなかったら、もう誰も呼んでないことになるから」
ヨナは膝を抱えて、初めてまっすぐこちらを見た。
「北の耳の人。あんた、返事、書ける?」
「書けます」
「読めないのに?」
「読めるようになってから書きます。——遅くなりました。一か月です」
子供は、それを聞いて、少しだけ笑った。笑い方を忘れていた顔の笑い方だった。
読めない報せは、読めた瞬間に告発になりました。ただし、証拠は一枚もありません。
次話、値のつく報せと、値のつかない報せの話をします。
※ブックマークに先渡し料はいただきません。




