第32話:誰も読まない旗
八日目の昼過ぎ、街道の坂を越えたところで、ピナが馬車の窓から半分身を乗り出した。
「お嬢。あれ、なんですか。畑が、動いてます」
「海です」
ロザリンドも、実物を見るのは初めてだった。湊バルカは、王領の南の端で丘に抱かれた街だ。桟橋が七本、帆柱が数えきれないほど立ち、そのどれもが同じ方向へ傾いでいる。風が一つで、街ごと同じ向きに傾いているのだった。
カルテンの街が「道の街」なら、ここは「風の街」だ。ロザリンドは馬車を降りて、まず一刻ほど、何もせずに桟橋を見ていた。
「お嬢、何を数えてます」
「船の出入りです。半刻で十一。うち、七隻が同じ刻限に舫いを解きました」
「揃ってますね」
「揃っているということは、誰かが揃えているということです」
中継所はすぐ見つかった。翼の座の掲示板が出ていて、その前でコリンが荷を担いでいた。
「嬢様! ……あ、失礼しました、お待ちしておりました」
「コリン。背が伸びましたね」
「南は飯がいいんです。魚が」
中継所の帳を見せてもらう。この湊で翼の座が扱っているのは、内陸へ送る相場報と荷主の照会が主で、海の報せはほとんど無い。
「海のことは、組合が持っていってしまうので」
「組合」
「水先人組合です。ここの海の報せは、全部あそこを通ります」
海の報せというものが、どう生まれるのかを、ロザリンドは初めて教わった。
沖で見たものを、船が旗で岸へ送る。岸で受けた者が組合へ持ち込む。組合はそれを束ね、読み合わせ、その日の見立てを一枚に仕立てる。仕立てた一枚を、値をつけて売る。
陸の網とよく似ていた。違うのは、束ねる場所が一つしかないことだ。組合の館は、桟橋のいちばん奥にあった。石造りで、入口の脇に大きな板が掛かっている。板には、その日の値が白墨で書き出されていた。
〈本日 入港見込 銀三枚/潮の刻限 銀三枚/時化の見立て 先渡し 銀十五枚〉
ロザリンドは、その板をしばらく見ていた。
「ピナ。時化の見立てが、いちばん高い」
「そりゃあ、命がかかってますから」
「はい。命がかかっているものが、いちばん高い」
組合の頭は、ガレトという五十がらみの男だった。日に焼けた首が太く、手の甲に古い綱の痕がある。彼はアルディスの紹介状を受け取り、封も切らずに卓に置いた。
「北の辺境伯様の使いが、うちに何の用だ」
「翼の座の者です。海の報せを、扱わせていただきたく」
「翼の座」
ガレトは笑った。悪意のない、はっきりした笑い方だった。
「鳥屋だな。あんたら、鳩を飛ばす」
「はい」
「鳩は、海の上をどこまで飛ぶ」
「岸の見えるところまでです」
「正直でいい」
彼は太い指で、卓を二度叩いた。
「なら話は早い。海のことは、海の者が決める。あんたらは陸で紙を運んでいればいい。——陸の鳥屋に、海の何が分かる」
「分かりません」
「ほう」
「ですので、伺いに参りました」
ガレトは、少しだけ笑うのをやめた。それから、面倒そうに紹介状を押し戻した。
「悪いが、うちの帳は見せられん。組合の飯の種だ。……あんたが妙な娘だってのは、噂で聞いてる。王都の耳だとか何とか。だがな」
彼は窓の外の海を親指で示した。
「あれは、耳じゃ足りん」
外へ出ると、日が傾いていた。桟橋の板は昼の熱を残していて、ピナが裸足になりたそうな顔をしている。
ロザリンドは、歩きながらガレトを数えていた。
あの男は、報せを隠す人間ではない。板に値を書き出して往来に晒しているのだから、隠す気なら最初からしない。彼が守っているのは秘密ではなく、束ねる場所が一つであるという状態のほうだ。
バルツァーは報せを箱の底に眠らせた。クロフトは報せを握り潰した。この男は、そのどちらでもない。彼はただ、正しく高く売っている。
「お嬢。門前払いですね」
「予想の範囲です。あの方は、嘘をつきませんでした」
「褒めてます?」
「ええ。嘘をつかない相手は、値さえ分かれば動きます」
そこでピナが、ふと足を止めた。
「……お嬢。あれ」
桟橋の、いちばん端の突堤である。
子供が一人、立っていた。年は十五、六か。継ぎの当たった上着で、背は低い。両手に短い棒を持ち、その先に小さな布を結んである。
子供は、その布を振っていた。右手を上げ、左を横に張り、少し待って、両方を下ろす。また上げる。決まった形を、決まった間で、繰り返している。
振り方には、無駄がなかった。遊びで振っている手ではない。十年、鳩を扱う手を見てきた目に、それは分かる。腕の高さが毎回そろい、待つ間の長さがそろい、終わりの下ろし方だけが少し急いでいる。
沖には、船が一隻もいなかった。
「……何やってんですかね、あの子」
「旗を振っています」
「誰に」
ロザリンドは答えなかった。答えの代わりに、彼女は突堤を歩いていった。子供は近づく足音に気づいたが、旗を止めなかった。最後の一組を振り終えてから、ようやく振り向いた。日に焼けて、目だけがひどく大きい。
「じゃま」
「失礼しました。何を送っておられますか」
「送ってない。呼んでる」
「どなたを」
子供は、少し黙った。
「返事、まだ来ないから」
ロザリンドは、帳面を開いた。挟んであった二枚を抜き、卓のかわりに石の縁へ並べて置く。七列と、四列。
子供の目が、その紙に落ちた。それから、何かに殴られたような顔をした。
「……これ、どこで」
「北で。わたくし宛てに届きました」
子供は膝をつき、紙に指を伸ばした。血の染みには触れず、記号の列を左から右へ、迷いなくなぞっていく。
なぞりながら、口の中で読んだ。
「灯が、嘘をつく」
海の報せは、値札の下にありました。
次話、読めなかった七列が読めます。読めた瞬間に、話が変わります。
※ブックマークは風下でも外れません。




