第31話:読めない報せが、二通目
晩春のカルテンは、鳩舎の窓を開け放しておける季節になった。
朝の帳付けが終わると、ロザリンドは帳面の後ろの頁を開く。挟んであるのは一枚の紙だ。角ばった印が七列。旗を上げ下げする形を写したような記号で、文字はひとつもない。
彼女はそれを卓に置き、しばらく眺め、また挟む。この一か月、毎朝そうしている。
「お嬢、今日も睨みっこですか」
ピナが帽子のつばを弾いて覗き込んだ。
「睨んでいません。数えています」
「数える? あたしには、蟹の足にしか見えませんけど」
「同じ印が、七列のうち四度出ます。四度出る印は、たいてい『こちら』か『あなた』です」
「へえ。じゃあ、あと何が分かりました」
「それだけです」
ピナが黙った。ロザリンドが「それだけです」と言う朝を、この帳場は一か月見ている。
鍵がないのだ、とマルロは思う。緋も藍も黒も、あの紙の前では役に立たない。嬢様の符号でも、先代の符号でもない体系は、いくら眺めても意味に化けない。読めない紙を前にしたときだけ、この帳場の主は、ただの二十歳の娘に戻る。
「嬢様。湊回りの便が着きやした」
マルロが革袋を逆さにして、卓に中身を空けた。相場報が十二、荷主からの照会が七。それから最後に、封のかかっていない粗末な紙が一枚、ひらりと落ちた。
宛名が、こう書いてあった。〈北の、耳の店へ〉。
帳場の音が止まった。
「……二通目です」
ロザリンドが紙を引き寄せる。今度は記号が四列しかない。そして右の端に、褐色の染みが二つ、指の腹の形で残っていた。
「お嬢。これ、血ですよ」
「触らないで。並べます」
二枚を卓に並べた。四列の三番目と、七列の五番目が同じ形だった。傾きの癖も同じだ。同じ手が、同じ体系で、同じ相手に、二度書いている。
「返事が来ないので、もう一度寄越した。——それも、急いで」
ロザリンドは顔を上げた。
「マルロ。今日の南の報せを、全部」
「へえ、全部で」
「全部です」
束が卓に積まれた。彼女は相場報の一枚一枚をめくり、日付だけを追っていく。指が、三十枚目で止まった。
〈王国船〈青鷺〉、牙瀬の岩礁にて沈没。乗員十一名のうち六名を救助。夜半、霧。四月二十七日〉
「マルロ。この紙が湊の中継に持ち込まれたのは」
「……ええと、控えによりゃ、四月二十七日ですな」
ロザリンドは二枚の紙を、沈没の報せの両脇に置いた。
「船が沈んだ夜に、血のついた報せが持ち込まれています。順序は分かりません。ですが、同じ夜に、同じ湊で、二つとも起きました」
「偶然ってこともありやしょう」
「わたくしは、偶然という言葉を帳面に書きません」
書けば、そこで数えるのをやめてしまうからだ。父にそう教わった。点が二つあれば、まず線を引いてみる。引いてみて違えば消せばいい。消すのは、引くよりずっと安い。
ドナウが左膝をさすりながら、ようやく口を開いた。
「嬢様。海の話ですぞ、これは。儂ら、鳥屋ですわい」
「はい。ですから読めません」
ロザリンドは立ち上がると、奥の棚から古い綴りを抜いた。父の代の控えである。駅逓網がまだ王家のものだった頃の、事務的な受け渡しの記録だ。
頁を繰る手が、途中で止まった。
二十枚ばかり後ろに、同じ宛名書きが一枚あった。
〈北の、耳の店へ——受、了。返、七日以内〉
父の字だった。日付は七年前の春。父が馬車から落ちて死んだ、あの春である。
そこで控えは途切れていた。以後の頁に、この宛名は二度と出てこない。
「……お嬢」
「父が、この宛名で誰かと文をやり取りしていました。七年前に、途切れています」
ピナがそっと訊いた。
「先代が、海の人と?」
「分かりません。分かるのは、この宛名が父の代からあったということだけです」
ロザリンドは控えを閉じた。声の高さは、朝と同じだった。ただ、閉じ方が少し丁寧だった。
湊バルカは、王領の南の外れにある。カルテンから王都まで馬車で五日、王都からリンデンの関所を抜けてさらに三日。ギルドの網の、いちばん南の端だ。中継はある。顧客も十いくつかある。だが翼の座にとって、あそこは「便が着く場所」であって、まだ「報せが生まれる場所」ではない。
「マルロ。湊バルカの支所番に、宿を一つ取らせなさい。ドナウは中継の継ぎを見直して。人の足で八日、鳩なら二日です」
「嬢様が、行かれるんで」
「はい」
「……そりゃ、帳場が寂しくなりますな」
「帳場は、あなたが開けていてください」
その日の夕刻、アルディスが馬から降りずに門まで来た。話は聞いたらしい。
「南へ行くそうだな」
「はい。八日ほど」
「湊は領の外だ。俺の兵は出せん」
「存じております。ですので、鳩をお借りします」
アルディスはしばらく彼女を見ていた。それから、鞍の脇から一通を抜いて差し出した。几帳面な字で、宛名だけが三度書き直された跡があった。
「領主名義の紹介状だ。湊の代官は、これで門くらいは開ける」
「……何度も書き直されましたね」
「うるさい」
彼は馬首を返し、それから振り向かずに言った。
「署名は、入れておいた」
夜、ロザリンドは自室で二枚の記号をもう一度並べた。
七列と、四列。血のついたほうの最後の印は、他のどれとも違って、ひどく乱れていた。書き終わる前に、手を掴まれた人の字である。
彼女は灯りを落とした。それでもしばらく、暗がりで紙を見ていた。
翌朝、荷は積み終わっていた。ピナが帽子をかぶり直し、つばを弾く。
「——出立、っと。お嬢、南に着いたら何から始めます」
「読めない紙を、読める人のところへ持って行きます」
「そんな人、いますかね」
「います」
ロザリンドは馬車に乗り、帳面を膝に置いた。
「二度も書いた人が、いますので」
第二部の始まりです。読めない報せが、二通目。
次話、湊バルカへ。海の報せを握る男と、誰も読まない旗を振り続ける子供に会います。
※ブックマークは海を越えても外れません。地図は南へ広がります。




