第30話:報せの、届く国
調印の朝、カルテンの帳場は花で埋まっていた。
持ち込んだのは客たちである。エルシーの店の羊毛袋に挿した野の花から、パン屋の届けた焼きたてまで、帳場は開業以来いちばん店らしくなかった。パン屋の親爺は焼きたてを一つ、当然の顔で受付のピナに手渡した。合言葉のとおりである。
卓には四人の領主が着いた。アルディス・ヴェイン辺境伯と、東西と南の隣り合う三領の主である。冬のあいだギルドの網に領境をまたいで救われた者たちだった。雪崩の警報に。相場の紙に。そして王都の顛末を誰よりも正確な報せで知った者たちに。
「王都があの様では、報せだけでも、まともな筋を持たねばならん」
南の老領主が言い、誰も異を唱えなかった。盟約の紙は一枚である。
〈通信同盟、盟約。一、いずれの領も、報せを止めない。二、いずれの領も、報せを曲げない。三、いずれの領も、封を検めない。四、翼の座の伝令は、いずれの領においても、その領の民として守られる。 右、四領の署名をもって発効とす〉
読み上げたのはマルロで、清書したのはピナだった。
半年前、「て」と「と」の二文字しか書けなかった少女の手蹟である。夜の帳場の石盤から始まった字は、いま四人の領主が署名する紙の本文になっていた。ドナウが署名の間じゅう自分の孫の祝いのような顔で洟を啜り、皆が見ないふりをした。
第四条を読み上げたとき、マルロの声が少しだけ揺れた。伝令が、どの領でも守られる。三年前の冬、王都の駅逓でテトが貰えなかったものが、四人の署名で紙になった。
署名の立会人の筆頭は、エルシーだった。商人衆を代表しての大役に伝法な女商人は柄にもなく硬くなり、署名を求められて、うっかりいつもの調子で訊いた。
「あたしの合言葉で、いいのかい」
「いけません。お名前でどうぞ」
帳場にこらえきれない笑いが漏れた。最初の客は赤くなって名を書いた。
署名が終わると、王都商務局の書役が遠慮がちに進み出た。
「あの……王都も、同盟の座に加われないか、との仰せで。せめて、その、上客の扱いというものは」
「先後は、設けません」
ロザリンドの答えは契約の日と同じだった。
「王都は、大切なお客さまです。これからも、お客さまです」
書役は肩を落とし、それでも今月の前金を几帳面に納めて帰っていった。空の玉座の都は、いま、若い王子の下で建て直しの最中である。名前を呼ばれた臣下が、少しずつ増えているとは、セドリックの手控えの写しにあった。
午後の帳場はいつもの音に戻った。
算盤。鳩の羽音。封蝋の匂い。作業場の奥からは、規則正しい彫りの音がする。コッブである。ギルドの封蝋工房で男は官封を彫っていた二十年ぶんの腕を、いまは自分の名前で振るっている。給金は帳簿どおり、月の初めに、一日も遅れずに出る。男はそれを、いまだに毎月、二度数えるという。
その工房の隅で、読み上げ役の見習いが石盤に字を書いていた。教えているのは、ピナである。
「いいですか。字が汚いのは構いません。報せが遅いのは許しません」
「それ、お嬢の受け売りじゃないですか」
「あたしはお嬢の一番弟子なので、いいんです」
「お嬢。今月の集計、締まりました」
夕方、ピナが帳面を持ってきた。中継三十一所。顧客は同盟の分が増えて、二百を越えた。ロザリンドは頁をあらため、末尾に日付を入れ、それから、いつものように一行だけ、用件でないものを書き足した。
——開業から半年。全員、無事。
その帳面を閉じかけたとき、湊回りの便が妙な一通を運んできた。
「南のサルヴェニアの商船が、預かってきたそうです。宛名が、その……変で」
差し出された封筒には、宛名がこう書いてあった。〈北の、耳の店へ〉。
封を割ると、中身は一枚。文字は、なかった。あるのは記号の列である。旗を上げ下げする形を写したような、角ばった印が、几帳面に七列。
帳場が覗き込んだ。
「……暗号、ですかね」とマルロ。
「読めるんですか、お嬢」
ロザリンドは、記号の列を長いこと眺めた。緋も藍も黒も、この紙の前では意味を持たない。彼女の符号のどれとも、父の符号のどれとも、違う体系である。海の上で、旗と灯りで報せを飛ばす者たちの文字——だとしたら、陸の網しか知らない彼女には、鍵がない。
「いいえ。読めません」
顔はいつもの無表情だった。ただ、声だけが、ほんのわずかに明るかった。
「読めない報せは、七年ぶりです」
彼女は封筒ごと帳面に挟み、新しい頁の頭に短く書いた。
——宿題。返信は、読めてから。
夜、露台にアルディスが酒を持って上がってきた。
「終わったな。……いや、あんたの顔は、終わった者の顔ではないな」
「ええ。店は、続きますので」
春の夜風が、鳩舎の匂いを運んでくる。眼下の街道を、遅番の伝令の灯りがひとつ、南へ向かって流れていった。あの先に湊があり、湊の先に海があり、海の向こうに、彼女のまだ知らない網がある。
「次は、何を始める気だ」
「さあ。……ただ、覚えなければならない言葉が、増えました」
断罪の夜、彼女は報せを止めた。
半年が経ち、報せは四つの領を結び、王都に届き、国境を越えて、海からも来る。止めた夜には独りだった帳場に、いまは名前を呼ぶ声が、数えきれないほどある。
「マルロ、戸締まりを。ピナ、明日は湊の筋の地図を出しなさい。——それから閣下は」
ロザリンドは、杯を受け取った。
「もう少し、そこに」
四領の通信同盟、成立です。帳面には「全員、無事」。
ただ一通だけ、まだ読めない報せが帳面に挟まっています。海の向こうにも、耳が要るらしい。
※第2部「海の情報網編」、本日より再開します。湊の筋の地図は、もう出来ています。




