第29話:最後の報告
配達は、夜明けとともに始まった。
王都の貴族、百三十八家。商会と組合が七十。刷り座が四つ。——二百と十二の届け先の門前に、同じ朝、同じ黒封の包みが立った。市場の読み上げ台には、ひと足早く写しが渡っている。
包みの表紙には、こう記されている。
〈王国への、最後の報告。ヘイルワースの駅逓、締めの一便。中身は五つ。諜報院の受領の列。両替手形の筋。宰相府の出入りの手控え。七年前の春の調査。彫師の証言。原本の在り処は各項に付記のとおり、いずれも突き合わせに応ずる。 R〉
中身は、写しの束である。金の出た日付と、宰相府に両替の使いが入った日付が、頁を並べれば誰の目にも重なるように綴じてある。読み解きに、符号の知識は要らない。読み上げ台の口上に載る程度に、平明に書き直してあった。
采配は、ピナだった。伝令三十四人と、王都のために雇い入れた駆けの子供たちを、四つの刻限に分けて走らせる。少女自身は夜明け前の高台に立ち、眼下の街路を、報せの黒い点々が血のように巡っていくのを見届けた。
「——配達完了、っと」
帽子のつばを、ゆっくり弾く。生まれた街の全部に、一つも落とさず届けた朝だった。
朝の王都は、頁をめくる音で明けた。
オルグレン伯爵家の落ちぶれた門前でも、包みは律儀に開かれた。断罪の夜に笑っていた家々が、こんどは自分の指で、断罪の種明かしを読む。読み終えた者から順に、顔色を失くした。捏造の証拠は、宮中へ上げられた調査の写しからしか作れない——では、あの夜、壇上で読み上げられた紙に頷いた自分たちは、何に頷いたのか。
市場では、読み上げ役が朝の相場より先に、表紙の文言を読み上げた。人垣は競りの倍になった。
宰相府が異変に気づいたのは、日が屋根に届くころである。
家令が青い顔で駆け込み、次いで、方々に放った使いが戻ってきた。回収せよ——最初の命令は、すぐに無意味だと知れた。届け先が、多すぎる。門を閉ざした家からは読めないが、閉ざさない家が読む。刷り座を差し止めても、四つのうち三つはもう刷り上がっている。
三十年、この男は報せを握り潰して昇ってきた。握るためには、報せがどこか一箇所を通ってくれなければならない。溜め池を握れば、川は握れる。だが今朝の報せは、どこも通らなかった。雨のように、全部に、いっぺんに、降っていた。
評議は、昼前に開かれた。
卓の上には、評議の重臣たち自身の門前に届いた包みが、そのまま載っている。誰かが火を点けようと言い、誰も動かなかった。自分の手元の一部を燃やしても、王都中の写しは燃えない。
クロフトは、最後まで温和だった。
「出所も知れぬ紙で、宰相を裁くと仰せか。……ええ、よく出来た紙です。ですが紙は、紙でございますよ」
「では、突き合わせましょう」
戸口で、声がした。諮問の安導を持つ北の店主が、評議の許しを得て立っていた。
「原本の在り処は、すべて書いてあります。両替商の帳面。監察府の記録——帝国が、すでに検め終えたものです。それから、宰相府の私庫。……紙は紙です。ですが対で揃った帳簿は、閣下、もう紙ではありません」
私庫の封印を、と誰かが言い、評議の目が一斉に王子へ向いた。命には、王家の判が要る。
レオニスは、書記の差し出した紙を一読し、宰相を見た。この半年、迷うたびに寄りかかってきた、温かく、底の見えない声の主を。正しかったことに、しておかねばなりません——あの便利な声が、何を正しかったことにしてきたのかを。
それから羽根ペンを取り、今度は一度も止まらずに、判を押した。
「体裁は、もういい。……開けろ」
私庫からは、消えた検分綴りと、駅逓網の譲渡の草案が出た。草案の売り渡しの条には、まだ署名がなかった。署名の日を、彼女が七年、遅らせ続けたのである。
その夜、レオニスは私室の窓辺に立った。
半年前、ここで考えを萎ませて、帷を閉めた。閉める手が重かったことだけを、よく覚えている。
王子は今夜、帷を開けた。眼下の街には、いつもより灯りが多い。どの灯りの下でも、同じ紙が読まれているのだろう。自分が二年前に一度死にかけたことを、王子はまだ知らない。それでも、あの紙の束のどこにも自分への恨み言が一行も無かったことの意味を、考え始めるくらいのことは、もう出来るようになっていた。
沙汰が下る前に、宰相は一度だけ、彼女のそばを通った。
「……いつから、わしを」
「断罪の夜からです。あの捏造は、宮中へ上げたわたくしの調査の写しからしか作れません。触れられる方は、多くありませんでしたので」
老人は、初めて仮面の下の顔で、小さく笑った。
「たいした網だ。……あの男も——おまえの父も、そこで止めておけば」
「父は、止めませんでした」
ロザリンドは、静かに遮った。
「わたくしも、止めません。それだけの話です。……ああ、それから閣下。これが王家への、最後の報告でございます。十年分の、締めの一通とお思いください」
夕刻、老侍従セドリックは、いつもの手控えを開いた。
書くことは、決まっていた。
——宰相府、本日より返答なし。王都、すべてを知る。
少し迷って、彼はもう一行だけ足した。
——報せは、届いた。
窓の外の伝書塔に、北へ帰る翼が上がっていくのが見えた。老人は手控えを閉じ、初めて、誰の目も気にせずに笑った。
宰相ギデオン・クロフト、失脚。剣は一本も抜かれませんでした。二百十二通の写しだけで。
父の帳尻も、彼女の帳尻も、これで締まりました。次話、北へ帰ります。開業半年の、締めの一話です。
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