第28話:お断りします
諮問状は、出立の支度の最中に届いた。
〈評議の名において、ヘイルワースの息女に諮る。帝国諜報卿の失脚に関し、北の網の知るところを述べられたし。日限は十日のうち。身柄の安全は評議がこれを保証す〉
「向こうから呼んでくれるとは、都合の良いことです」
ロザリンドは諮問状を畳んだ。帝都の失脚劇は、すでに国境を越えて王都の社交界を騒がせている。囁かれているのは、諜報卿に金を払っていた「王国側の何者か」の噂——評議は火元を知りたがり、そして火元その人が、諮問の名で彼女を呼び寄せ、何をどこまで摑んでいるかを測ろうとしていた。
馬車は五日。同行はアルディス、ピナ、護衛に領兵が十二。荷の中には、黒封の束が、静かに積まれていた。
半年ぶりの王都は、少しだけ、息を吹き返していた。
市場の競り台には日付のある紙が貼られ、伝書塔には朝夕、藍封の翼が降りる。どれも彼女の店の仕事である。門をくぐる馬車を、道行く者が振り返った。北の網の主が来た、と囁きが走り、囁きは半日で王都を一周した。断罪の夜、この街は彼女の名を嘲りで呼んだ。いまは、囁きの底に別の色がある。畏れと、それから幾らかの、後ろめたさである。
「……あたし、この街、もっと嫌いなつもりでした」
馬車の窓から市場を見ていたピナが、ぽつりと言った。
「でも、競り台に紙が貼ってあるの見たら、なんか。……うちの紙だなあ、って」
「ええ。届いてしまうのが、うちの店の悪い癖です」
玉座の間は、空だった。
国王は永の病で臥せって久しく、玉座には誰も座らない。政は、空の椅子の左右に立つ者たちが回してきた。評議の老貴族たち。第一王子レオニス。そして、玉座にいちばん近い位置に、宰相ギデオン・クロフト。
正装のロザリンドは、大理石の中央に立った。断罪の大広間は、廊下を一つ隔てた先にある。半年前、扇を閉じる音だけを残して出て行った、あの部屋である。
「遠路、大儀でございました」
口を開いたのは、宰相だった。温和な、どこにも引っかからない声。
「帝都の騒ぎ、まことに嘆かわしい。……北の網は、何ぞ耳にしておられますかな」
「諜報卿は、私金で動いていたそうです。監察府の検めは、それは正確だったと聞きます」
「ほう。して、その金の出所は」
一拍の間、二人の目が合った。測りに来ている。彼女は、扇の内で静かに答えた。
「さて。……帳簿と申すものは、対で揃って初めて読めるものです。片方だけでは、誰の名も申せません」
嘘は、ひとつも言っていない。そして宰相の目の奥で、何かが微かに動いたのを、彼女は見た。片方だけでは——つまり対の片割れが、どこかに在ると。
評議の老貴族が、それは、と身を乗り出しかけ、宰相の温和な咳払いで議事は次へ流れた。
廊下側の壁際に、老侍従が一人、影のように控えていた。退出の際、ロザリンドはその前を通った。目は合わせなかった。ただ、すれ違いざまに扇をわずかに傾け、老人は半年前と同じ、無言の一礼を返した。数えた人と、届けた人の、それだけの挨拶だった。
諮問は半刻で終わった。彼女は問われたことだけに答え、余計な札は一枚も切らなかった。切る日は、三日後の朝と、もう決めてある。
伝書塔の下で呼び止められたのは、その帰りである。
「——待ってくれ」
レオニスだった。供も付けず、廊下を追ってきたらしい。半年前より、目に見えて痩せていた。
「……あんたに、言わねばならんことがある。俺は、間違えた。あの夜の証拠がどう作られたか、いまも全部は分からん。だが、少なくとも俺は、自分で確かめもせずに読み上げた。それは、俺の罪だ」
王子は、そこで一度、言葉を切った。
「戻ってきてくれ。網も——いや。あんたに、戻ってきてほしい」
中庭の鳩が、一羽、飛び立った。ロザリンドは、その羽音を聞き終えてから、静かに答えた。
「お断りします。今さら遅いので」
レオニスは、殴られたように黙った。彼女は一礼し、それから、ほんの少しだけ言葉を足した。
「殿下。ひとつだけ。……人は、名前を呼ばれた場所に仕えるものです。殿下はこれから、臣下の名前をたくさん呼んでください。それが、できる方だとよいのですが」
二年前、この人の杯を守った夜のことは、言わなかった。言えば、この人の身がいまも軽くないことまで、敵に報せることになる。守った事実は、明かさないままでいちばんよく守る。彼女は最後まで、そういう店の主だった。
仕込みに二日を使った、その夜。宿の露台から、王都の灯が見えた。
「終わったら、北へ帰るんだな」
隣で、アルディスが言った。ロザリンドは頷いた。
「はい。帰ります」
口にしてから、気づいた。帰る、と言った。この街に十九年住んで、出ていくときには「発つ」としか思わなかったのに、いまは北の帳場を、家と呼ぶ心積もりでいる。
「……その家に、俺の席はあるか」
武辺者の声が、めずらしく小さかった。彼女は、王都の灯から目を離さないまま、答えた。
「帳場のいちばん近くに、最初から置いてあります。……気づいておられないのは、閣下だけです」
「そうか」と、辺境伯は言った。それから、咳払いをひとつして、付け足した。「なら当分、空けん」
階下では、ピナが窓枠に頬杖をついて、同じ灯を見ていた。
テトと育った街である。使い捨てられて、二人で竈の裏で眠った街である。名簿の一行目の名前を、胸の内で呼ぶ。
——あした、王都中を、あたしの足で走るからね。ぜんぶ見てて。
夜明け前、王都の空に、黒い翼が降り始めた。
「お断りします。今さら遅いので」——言うべき人に、言うべき場所で。
そして帳場のいちばん近くの席は、埋まったようです。次話、配達の朝が来ます。
※ブックマークの席は空けてあります。最初から、あなたの分も。




