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第26話:同じ卓の、敗者

 手仕舞いの指図は、雪解けの終わりに来た。


 蠍の封を割ったコッブは、読み上げる声を途中で一度、切った。型の回収。管の凍結。そして最後の一行。——彫師は、始末せよ。


「……殺しの指図まで、いい字で書きやがる」


 男は紙を置き、自分の湯呑みの茶が冷めているのを、初めて気にした。指図の宛先は、王都の別の手先である。だがその便りは、王都に着く前に、この帳場で写しを取られていた。始末されるはずの彫師は、始末を命じる文面を、誰より先に読んでいる。


「怖いか、と訊くべきなんでしょうな、こういう時は」


 マルロが気遣わしげに言い、コッブは首を振った。


「怖かないさ。……ただな、番頭さん。おれはあの男の下で三月働いた。手付けはきちんと届いた。字は綺麗だった。それだけの雇い主が、仕舞いには一行で人を消す。——こっちの嬢様は、踏み倒された三月分から払いやがった。世の中の帳簿ってのは、どうなってるんだろうな」


 答えられる者は、いなかった。


「手仕舞いを急いでいます。……帝都で、監察が動きましたね」


 ロザリンドの読みのとおりだった。


 帝都、諜報院。査問の席で、ヴォルクハルトは三人の監察官と向き合っていた。


 卓の上には、二種類の紙が積まれている。ひとつは、彼が上申した報告——王国宰相、駅逓網をサルヴェニアへ二重に売らんとす。もうひとつは、監察府に届いた写しの束——諜報卿、王国の何者かより私金を受領す。


「上申の件、裏付けを求めたところ、商館の用向きは茶の買い付け。両替の筋は貴殿の照会の記録のみ。売値三割増しの出所は、酒場の噂……卿、これはいったい、どこから引いた線でございますか」


 ヴォルクハルトは、卓の上の紙を、順に眺めた。

 家令の足取り。本物である。手形の筋。本物である。空箱の商会。本物である。噂——出所の割れない、たった一欠片の。

 男は目を閉じ、半年前に自分が副官へ語った言葉を、正確に思い出していた。報せを迷わせるには、本物を少しだけ曲げればよい、と。


「……見事なものだ」


 監察官たちが、顔を見合わせた。


「卿。何がでございますか」

「全部、本当なのだよ。諸君が突き合わせた紙は、一枚残らず本物だ。嘘は、どこにも書かれていない。……線の引き方の中にしか、無い」

「卿。質問に、お答え願いたい」

「答えている。わたしは本物の紙を集め、嘘の線を引いた。引かされた、と言うべきだな。急がず、正確に——わたしが命じたとおりの足取りで、罠の底まで歩いた」


 監察官たちには、半分も通じなかった。通じないことを、男はもう気にしていなかった。

 私金の件は、弁明しなかった。王国の宰相と手を結び、院の裁可を通さずに北の網へ仕掛けた。その金の記録が、これも一枚残らず本物のまま、監察の卓に載っている。

 迷わされたのではない。迷う道を、自分の足で歩かされたのだ。


 罷免の沙汰は、その日のうちに下りた。


 執務室に戻ったヴォルクハルトは、壁の地図の前に立った。カルテンの位置の黒い駒を、指でつまみ上げる。副官が、蒼白のまま戸口に立っていた。


「閣下。……手は、まだあるはずです。宰相に文を送り、口裏を」

「やめておけ。その文が、いちばん高く売れる紙になる」


 男は、駒を机に置いた。


「わたしの負けだ。それも当然の負け方だ。……わたしはあの網の速さを測り、広さを測り、値まで付けた。だが、深さを測らなかった。パン屋の親爺が、伝令のために焼きたてを一つ取っておくような網の深さは、諜報院の帳簿では測れん」

「……閣下は、どちらへ」

「北の辺地に、小さな家を貰える。監察府は存外、温情のある役所だ」


 副官は、何か言おうとして、やめた。この人の下でなければ学べないものを学んだ、と言いたかったが、それは敗軍の将への手向けには、たぶん軽すぎた。代わりに副官は、深く一礼した。男は満足そうに頷いた。


「最後の仕事だ。文をひとつ、出す。……院の封は、もう使えん」


 使うのは、蠍の封——最後の一通である。


「宛先は」

「敵に、だ」


 男は、笑っていた。負けた男の顔で、負けた男の目ではなかった。


「わたしを雇った男は、彼女の値を知らずに値を付けた。わたしは値を知って、測り損ねた。……ならば帳尻の合わせ方は、ひとつしか残っていない」


 その便りがカルテンに届いたのは、七日後の朝である。


 蠍の封。宛名は、北の店主どの。中身は、時候の挨拶も、恨み言も、なにもなかった。ただ、日付と金額の列が、符号で三十行。そして末尾に、短い添え書き。


〈これは、あなたの値を知らずに値を付けた男の、帳簿の鍵である。開け方は、あなたなら分かる。——良い卓だった。次は、別の卓で。 蠍〉


 帳場は、静まり返っていた。


「お嬢。これ……罠、ってことは」

「ありません。この男は、負けを支払っています」


 朝駆けで来ていたアルディスが、便りを検分して、唸った。


「敵に塩を送る、というやつか。……解せんな。この男は、あんたの店を潰しに来た男だぞ」

「潰しに来て、値踏みを間違えて、負けました。武人の負けが剣で終わるように、この者の負けは、報せで終わるのです。……それに閣下、これは塩ではありません」


 ロザリンドは、符号の列を指した。


「請求書です。この鍵で宰相が沈めば、自分を雇い損ねた男の見立て違いが、帝都で証明されます。……負けてなお、最後まで値の勘定をしている。そういう男です」


 ロザリンドは、符号の列を指で追った。日付は、古いところで七年前まで遡っている。金額の脇の小さな印は、諜報院の受領の符牒。対になる帳簿は、王都のどこかにある——王の隣に座る男の、どこかに。


 彼女は便りを封筒に戻し、立ち上がった。


「マルロ。王都行きの支度を。……断罪の夜の帳尻を、合わせに参ります」

諜報卿ヴォルクハルト、退場です。負け方まで、格のある男でした。

そして餞別の「帳簿の鍵」は、王の隣を指しています。次話、最後の突き合わせです。

※ブックマークに監察は入りません。私金も不要です。

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