第25話:照会の、足音
最初の足音は、王都の両替商から聞こえた。
リンデンの代官所から、定期便のついでの一報。「先日申し付けの帳面の件、東の訛りのある商人が写しを求めに参った。帳面は、仰せのとおり正直に見せた。……これにて貸しは相済み、ということでよろしいか」。文の末尾の几帳面な念押しに、帳場が少し笑った。
二つ目は、湊から。エルシーの店の若い衆が、南方商館の周りを三日かけて回った男の人相書きを届けてきた。焼き付けた三人のうちの、一人だった。
三つ目は、空箱の商会——二年前の暗殺の金を洗った、あの休眠商会の登記を、王都の代書屋に照会した者がいた。
ロザリンドは、王国地図に黒い針を刺していった。
王都に三本。湊に二本。国境の宿場に一本。街道筋に、三本。
「……こうして見ると、多いですねえ」
ピナが、地図を見上げて言った。湊の張り込みから戻ったばかりで、まだ髪に潮の匂いが残っている。
「蠍の手先って、王国にこんなに居たんですか」
「居たのではありません。動いたのです」
針の頭を、ロザリンドは指先でひとつずつ数えた。
「潜んでいる者は、見えません。ですが裏を取れと命じられた者は、歩きます。帳面を見に、登記を調べに、酒場で聞き込みに。……歩けば、足音がします。この国の道と帳場は、ほとんどわたくしの網の上にありますので」
ドナウが鳩の餌箱を抱えたまま、地図を眺めて感心した。
「嵐の晩に、稲光で庭が見えるようなもんですなあ。……普段は真っ暗な庭が、光った一瞬だけ、隅から隅まで」
「ええ。ですから、光っている間に描き写します」
九つの点が、地図の上に浮かんでいた。半年近く追っても摑めなかった敵の網の輪郭が、たった十日で、である。
餌を検めさせること自体が、罠の本体だった。
だが、蠍も蠍だった。
次の指図書を検めていたコッブの手が、途中で止まったのである。男は紙を灯りに寄せ、二度読み、それから低く唸った。
「……この野郎」
「どうしました」
「四つめの型を彫れ、と来た。寸法の指定つきだ。だがこの寸——官封の彫りじゃ、あり得ん寸だ。台座と印面の釣り合いが崩れる。二十年やった彫師なら、必ず問い返す」
小屋の空気が、張り詰めた。
ロザリンドは、指図書を受け取って眺めた。数字は、素人目には何の変哲もない。マルロが後ろから覗き込み、分からん、と正直に首を振った。
「問い返さなければ」
「『コッブは死んだか、寝返ったか』——そういう試しだ。指図書をおれ以外の誰かが読んでる、と踏んだ時の、あいつらの手癖よ。……食えん男だ。こっちの管が太り始めた、ちょうどその頃合いに刺してくる」
管の生死を測る、罠の照会である。呑み込んで型だけ納めれば、その瞬間に管は死ぬ。逆に、慌てて取り繕った問い返しを書けば、それも死ぬ。
ロザリンドは、しばらく黙って紙を見ていた。それから、机の端に紙を置いた。
「では、問い返してください。あなたの言葉で、あなたの癖のままに」
「……おれの言葉で、いいのか。おれの言葉は、汚いぞ」
「あなたが本物である限り、本物の返事に勝る証はありません」
コッブは、ふん、と鼻を鳴らして筆を取った。書き上がった問い返しは、寸法の間違いを職人が詰る小言で、半分は悪態だった。二十年この寸でやってきた、素人が数字をいじるな、彫り直しの手間は誰が払う——彼女は一字も直さず、そのまま管に載せた。
十日後、蠍からの返信は短かった。「寸は書き損じである。従前のとおりに」。——試験は、通った。
そのころ帝都では、別の紙が動いていた。
諜報院の金蔵を検める役所——監察府の門前に、ある朝、差出人のない包みが届いた。中身は写しの束である。王国の両替商の手形の筋。王国鋳造の新打ち金貨の払いの記録。受け取りの側の署名は、いずれも諜報院の符牒。
偽造は、一枚もなかった。全部、本物である。監察府の官吏は三日かけて突き合わせ、四日目に、上役の部屋の戸を叩いた。
——諜報卿が、王国の何者かから、私金を受けております。
そして、決定的な足音が響いた。
国境の宿場の針が、動いたのである。蠍の使いが、商隊にも紛れず、鳩も使わず、ただの旅装で王都へ向かった。
追ったのは、南回りのコリンである。追う、といっても後を付けるのではない。街道筋の中継で先回りし、駅番の目で「通った」ことだけを確かめて、次へ回す。宿場の老婆は縫い物をしながら旅装の男を数え、川湊の船着きでは荷運びの少年が、渡し賃を払う手つきをひとつ覚えた。誰一人、男を見張っていない。ただ、男の通り道の全部が、誰かの持ち場だった。
行き先は、三つの中継を数えたところで割れた。王都の、とある屋敷の裏口。
宰相府の、家令の住まいだった。
「……直に、訊きに行きましたね」
ロザリンドは、地図の上で、二つの針の間に糸を張った。帝都の蠍と、王都の宰相。半年のあいだ影と影で繋がっていた二人が、疑心という名の糸で、初めて彼女の見ている前で結ばれた。
〈両替の筋、登記、商館、いずれも裏の取れること前回のとおり。残る一点、直に検める。売り手が二枚舌か、噂が空音か、いずれにせよ「東の言い値」は据え置かれたし。 蠍〉
写し取られたその便りを読み下して、マルロが呻いた。
「嬢様。こいつは、つまり」
「ええ。蠍と宰相が、金の話を、文字で始めました」
動く線は、見える。そして文字になった線は——残る。
足音は九つ、糸は一本。蠍と宰相が、とうとう直接繋がりました。彼女の見ている前で。
次話、帝都で帳尻が合います。情報戦の、頂上です。
※ブックマークの照会は足音がしません。安心して裏をお取りください。




