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第23話:蠍の巣への、配達

 鳩舎の奥の作業小屋に、その男は移されていた。


 王都駅逓崩れの彫師、コッブ。川湊の安宿で領兵に踏み込まれてから五日、男は縄も打たれず、ただ道具箱だけを取り上げられて、藁の寝床で天井を数えていた。飯は日に三度、きちんと出た。責め立てる者も来なかった。それが男には、いちばん薄気味悪かった。

 六日目の朝、戸が開いて、入ってきたのは番兵ではなかった。北の令嬢が、両手で道具箱を抱えていた。


「お返しします。検めましたが、良い道具でした」


 机に置かれた箱を、コッブは長いこと見ていた。二十年、駅逓庁の官封を彫ってきた箱である。それから、しゃがれた声で言った。


「……妙な責め方をする。指の一本も詰めずに、道具を返すのか。あんたの封を写したのは、このおれだぞ」

「腕は、罪ではありません。腕の使い道が、罪でした」


 ロザリンドは、向かいの床几に腰を下ろした。


「あなたの写した緋封を、検めました。蝋の練り、印面の彫り、傾きの角度まで。……正直に申し上げて、うちの若い彫り手では、十年経ってもあの仕事はできません」

「……褒めてるのか、それは」

「値踏みです。これから、お願いをしますので」


 男は眉を寄せた。彼女は、構わずに続けた。


「使い道を替えていただきます。——蠍への納めの管は、まだ生きていますね」


 コッブの目が、初めて動いた。


 捕縛は、表に出ていなかった。踏み込みは夜半、宿の主はリンデンの代官所に貸しのある男で、口は堅い。王都の借金取りたちの耳には「彫師は取り立てから逃げて、湊から船で消えた」の噂だけが流れている——流したのは、ピナである。少女は三日かけて王都の安酒場を四軒回り、それらしい船の名まで添えて、噂に足を付けてきた。

 蠍の側から見れば、コッブは今も、王都と辺境の間のどこかに潜んでいる職人のままだった。次の納めは十日のうち。受け渡しは商隊の荷に紛れさせる手筈——男は、それを全部知っていた。


「おれに、二重に彫れというのか。あんたの偽封を彫った手で、今度は蠍宛ての」

「偽物の偽物を、彫っていただきます」


 彼女の声は、料金表を読む声と変わらなかった。


「管は殺しません。飼います。蠍はこの先も、あなたの手から報せを受け取り続ける。——その報せを書くのが、わたくしになるだけです」


 コッブは笑おうとして、笑いにならなかった。


「断れば」

「お断りになっても、構いません。その場合あなたは、ただの偽封の彫師として法に渡ります。……ですがその前に、ひとつだけ」


 ロザリンドは、帳場から持ってきた革袋を、道具箱の隣に置いた。銀の重い音がした。


「駅逓庁が踏み倒した俸給、三月分です。利子は付けていません」


 男は、袋と彼女の顔を、二度見比べた。


「……なんの、つもりだ」

「駅逓の帳尻です。あなたの給金は、本来わたくしの家が払っていたものでした。庁に代わってから、払われなくなった。人の帳尻は、誰かが合わせなければ、残り続けます」


 忠義に値を付けなかった連中が悪い——蠍の手付けを数えた夜、男が呑み込んだ言い訳を、この令嬢は、逆さから折りに来たのだった。

 コッブは、革袋には触れなかった。代わりに道具箱の蓋を開け、彫刀の並びをひとつずつ検め、油の匂いを嗅ぎ、最後に箱の底の古い官封の見本に、そっと指で触れた。


「……何を、彫らせる気だ」


 その夜の帳場で、作戦の絵図が開かれた。


「つまり、蠍の網に、うちの支店を出すんですか」


 ピナが目を丸くし、マルロは算盤を止めて唸った。


「嬢様。飼うと仰いますがね、飼い犬に手を噛まれるのは、こっちかもしれませんぜ。あの彫師が蠍に泣きつけば、それまでだ」

「泣きつく先が、伝令を『駒』と呼び、彫師を使い捨てる男です。……それに、マルロ。あの人は今朝、袋より先に道具箱を開けました」


 番頭は、少し考えて、算盤を弾き直した。この嬢様の人の見立てで、外れた例をまだ知らない。

 敵の網は闇の中、こちらの網は市場に貼り出されてきた。ずっとその非対称で殴られてきたのである。その闇に、初めて灯りがひとつ点く。


 文面の監修は、その晩から始まった。


 ロザリンドは、押収した指図書の束と、コッブの過去の返信の控えを机に広げ、男の書き癖を検めていった。「承知」を「承智」と書く癖。数を必ず漢数字で立てる癖。行の終わりが、わずかに右へ流れる癖。

 見かねたコッブが、貸せ、と手を出した。


「おれの猿真似の稽古か。やめとけ、嬢さん。猿真似は、猿真似の名人が見りゃ分かる」

「ええ。ですから、あなたが書くのです。わたくしは中身を選ぶだけです」

「……本物に、本物を書かせるか。嫌な店だよ、まったく」


 男の口ぶりに、初めてかすかな笑いが混じった。


 第一信は、三日後の商隊に載った。


〈納めの型三つ、彫り上がり指定の寸のとおり。受け渡しは前回の筋にて。なお王都にて借金取りの動きあり、居を移した。あわせて耳に入れる。北の店、湊筋の商いを広げる由。宰相家の家令、近ごろ湊に足しげし。 C〉


 文面はコッブの手癖のまま、綴りの間違いの癖まで、そのままである。ただし最後の三行だけは、帳場の灯りの下で、ロザリンドが一語ずつ選んだものだった。

 世間話の顔をした、餌の最初のひと欠片である。


「お嬢。蠍って、これで釣れるんですか」

「一度では釣りません。……賢い魚ほど、餌は小さく、何度も撒きます」


 国境を越えた便が蠍の机に届くころ、カルテンの帳場では、彼女が王国地図に小さな黒い針をひとつ、刺していた。

 王都の安宿。敵の網の、こちら側の口。

 針は、これから増える。

彫師のコッブ、転職しました。給金は帳簿どおり、耳を揃えて出ます。

敵の網に口をひとつ確保。次話、餌を作ります。——材料は、ぜんぶ本物です。

※ブックマークの口は上にあります。あちらは無料で、踏み倒しもありません。

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