第19話:緋色の偽物
市場の立て札に、その緋封は貼られていた。
〈至急。峠道、雪崩にて崩落。荷駄の通行、向こう三日は成らず。峠向こうへの買い付けは見合わせられたし。 翼の座〉
緋色の蝋。ギルドの印章。傾きは、峠の中継所を示す角度。
剝がして手元で検分しても、ロザリンドは即座に偽と言い切れなかった。蝋の練り、印の彫り、押しの深さ。どれも本物の作法どおりである。違うのは、ただ一点——この便を、ギルドは出していない。
「峠道は」
「生きてます。今朝も定期便が通りました。雪崩なんて、影も形も」
ピナの答えに、帳場の空気が重くなった。
実害は、その日の競りで出た。立て札を信じて峠向こうの買い付けを引いた商人が三人、油の競りをむざむざ降りた。翌日、峠道が無事と知れたときには、油は他人の荷になっていた。損は、まとめて銀二百枚を超えた。
「どういうことだい、ギルド長さん」
帳場に乗り込んできたのは、降りた商人の一人だった。エルシーが割って入る。
「あんた、落ち着きな。この人が出してない便だって——」
「出してないなら、なお悪いね! あの封が信じられないってんなら、あたしらは明日から、何を見て荷を動かしゃいいんだ!」
その問いには、エルシーも返す言葉を持たなかった。
商人は言うだけ言って帰り、帳場には、剝がされた偽封だけが残った。
偽の便は、続いた。
三日後には藍封の相場報が湧いた。東の豆が値崩れ、と書いてあった。崩れていなかった。信じて売り急いだ村がひとつ、まるまる損をした。
五日後には、川湊で二通。今度は本物の定期便と同じ朝に着いた。同じ色、同じ印、中身だけが食い違う二通を並べて、湊の船元は頭を抱えた。
「……どっちも、うちの封です」
検分したマルロの声が、掠れていた。
「型から写しています。素人の似せ物ではない。彫師の仕事です」
配達から戻ったコリンは、その日、湊の乾物屋の前で塩をまかれた。
「偽の報せ屋が来たよ」と、女房が近所に聞こえる声で言った。少年は届け先を三度確かめ、受け取りの判をもらえないまま、便を持ち帰った。帳場に戻った彼は、濡れた犬のような顔で、それでも背筋だけは伸ばして報告した。
「南回り、十二軒中、受け取り拒否が二軒です。……届け方が悪かったんじゃ、ないです。便は、落としてないです」
「知っています」
ロザリンドは、持ち帰られた便を受け取って、言った。
「あなたの仕事は、今日も落ちていません。……落とされているのは、別のものです」
ロザリンドは、本物と偽物を机に並べた。緋と緋。藍と藍。十年、封は文を信じさせるために使ってきた。市場の壁に規則を貼り出し、誰にでも見分けられる印にした。リンデンの関所では、その「隠していない」ことが店を守った。
いま、その公開された規則が、そっくり毒の設計図になっていた。
そして七日目、いちばん嫌な一通が来た。
国境沿いの村の代官から、問い合わせの便である。——昨夜、貴ギルドの緋封にて「帝国兵、峠向こうに斥候」との報せを受領。領へ上げる前に、真偽の確認を乞う。
帳場の空気が、あの偽報事件の朝に戻った。ギルドは、そんな便を出していない。だが村の代官が偽封を信じて領兵を呼べば、国境は再び暴発しかける。逆に、本物の警報が来た日に「また偽物だろう」と捨て置かれれば、今度は村が焼かれる。
「……商売の損だけじゃ、なくなりましたな」
マルロの声は低かった。契約の三条、防衛の報せは何より優先する——その一条が、いま毒の的にされていた。
ロザリンドは代官へ、藍封で短い返書を書いた。当該の便は当ギルドの発信に非ず。以後、防衛に関わる報せは、伝令が対面で口上を添える。封だけの防衛報は、真偽を問わずまず疑われたし——。
書き終えて、彼女は筆を置いた。封だけの報せを疑え、と。自分の店の封を、自分で疑えと書く日が来るとは。
「解約が、来ています」
夕方、マルロが帳簿を開いた。小口の商人が四軒。定期報を「しばらく止めてくれ」が七軒。理由を言いにくそうに、皆同じことを言った。——おたくの報せが悪いんじゃない。おたくの封が信じられるかどうか、こっちにはもう分からないんだ。
「網は、生きてるのに」
ピナが、拳を握った。
「鳩も伝令も、ひとつも落としてないのに。なんで、うちが疑われるんですか」
「疑いは、報せより速いからです」
ロザリンドは、静かに言った。
「そして疑いには、翼が要りません。……よく出来た手です。網を斬らず、網に運ばせている。うちの網が速いほど、偽物も速く着く」
夜、彼女は一人で帳場に残り、偽封を灯りに透かしていた。
彫りの癖。蝋の艶。押すときに、印章をわずかに手前へ引く手つき。——王都の駅逓庁で、官封の意匠を彫っていた仕事を、彼女は知っている。名前も、たぶん、知っている。だがそれを言い当てたところで、商人たちの迷いは晴れない。偽物の出所を証すことと、本物を信じてもらうことは、別の仕事だ。
報せは、信じられなければ、ただの紙。
父の設計思想が、初めて、彼女自身に牙を剝いていた。
悪意は、封だけでは終わらなかった。
週の変わり目、城下と川湊に、刷り物が撒かれた。署名のない、上物の紙だった。
いわく——北のギルドの主は、諸家の秘密を盗み見て断罪された罪人である。いわく、あの網は報せを運ぶ顔をして、いまも王国中の秘密を集めている。あなたの店の帳尻も、あなたの家の縁談も、あの女の帳面には符号で書かれている。
いわく。罪人の封を、まだ信じるのか。
刷り物を持って帳場に来たエルシーは、怒りで手を震わせていた。
「誰がこんな……あんたが断罪されたときの話まで、ご丁寧に蒸し返して」
「よく調べています」
ロザリンドの声は、変わらなかった。変わらないことが、この夜は、かえって痛々しかった。
「エルシー。すみませんが、今夜は店を閉めます」
女商人が帰ったあと、彼女は帳場の奥の小箱から、黒い革の手帳を出した。
鳥籠の焼き印。開かずに、表紙に手を置いたまま、長いこと座っていた。
断罪の夜と、同じ紙質だった。あの刷り物は。
封が疑われ、次は人が疑われました。二の矢まで、揃って上物の紙です。
次話、断罪の夜に読み上げられた「盗み見」の、本当の名前の話をします。
※ブックマークは偽造できません。あなたの端末にだけ届く本物です。




