第20話:盗み見と呼ばれた報せ
刷り物は、王都にも撒かれていた。
北のギルドと契約した諸家に、署名のない文が回った。罪人の網に、家の内証を運ばせるのか。あの女の帳面には、あなたの家も書かれている——。
効き目は、あった。契約を見合わせたいという文が二通、王都から届いた。そして三通目は、王都の名族からアルディス宛てだった。ヴェイン辺境伯ともあろう方が、断罪された女の罪状をお忘れか、と。
昼間の帳場では、ピナが刷り物を一枚、竈で燃やして叱られていた。
「燃やしても、刷った版が残っています。意味がありません」
「意味ならあります。あたしの気が、ちょっとだけ済みます」
少女は火箸を握ったまま、口を尖らせた。
「だってお嬢、言い返さないじゃないですか。罪人だなんて書かれて。あることないこと——ないことばっかり書かれて」
「言い返す紙は、売るほど刷れます。信じてもらえる紙は、刷れません」
ロザリンドの声は変わらなかった。それがこの日のピナには、いちばん腹立たしかった。
その夜、アルディスは一人で鳩舎に来た。
彼は懐から名族の文を出し、帳場の灯りで、端から火を点けた。燃え尽きるまで、どちらも黙っていた。
「疑って来たのではない。それは先に言っておく」
灰を火桶に落として、彼は言った。
「ただ、聞きたくなった。断罪の夜に読み上げられたという記録——オルグレンの縁談、ダルトンの借財、グレイルの船。あんたは何も弁明しなかったと聞いた。……あんたの口から、事実を聞きたい。誰にも言わん。聞くだけだ」
ロザリンドは、しばらく黙っていた。
それから帳場の奥の小箱を開け、黒い革の手帳を、机の上に置いた。鳥籠の焼き印。七年前に死んだ父の、形見である。
——報せはね、ロザリンド。剣より速く、人を守るものだよ。
表紙の焼き印を、指先でひとつなぞる。この手帳を、他人の目の前で開くのは、父が死んでから初めてのことだった。
「読める者は、わたくしだけです。ですから、読み上げます」
頁は、細かな符号で埋まっていた。彼女は指で行を追い、平坦な声で、読み下していった。
〈二年前、春。ダルトン侯家の借財、貸し手は三度替わり、いずれも空箱の商会。金の出は東。同じ金が、グレイル商会の船「白鷗」の沈没損害の中で消える。荷目録に、粉と記された樽二つ——粉にあらず。縁談の筋から、殿下の側仕えに一人。杯は、初夏の庭園の宴にて〉
アルディスは、途中から身動きをしなくなっていた。
「……杯、というのは」
「第一王子レオニス殿下の、杯です」
ロザリンドは手帳を閉じた。
「二年前、殿下の暗殺が仕組まれていました。毒です。金は東から入り、船の損害という帳簿の穴で洗われ、縁談の筋で人が入り、庭園の宴で杯に落ちる手はずでした。……わたくしが調べていたのは、それです。オルグレンの縁談の裏も、ダルトンの借財も、グレイルの船も。ぜんぶ、同じ一本の線でした」
「……防いだのか」
「側仕えの配置替えがひとつ。納入商の差し替えがひとつ。船荷の検めがひとつ」
彼女の声は、帳簿を読む声と同じだった。
「点をみっつ、動かしました。線は、宴の三日前に切れました。刺客も毒も、宴には届いていません。……殿下は、ご自分が二年前に一度死にかけたことを、いまもご存じありません」
鳩舎は、静かだった。眠った鳩の羽音が、時おり藁に落ちた。
「では、断罪の証拠の束は」
「わたくしの調査の写しです。規式に則って、宮中へ上げたものがありました。触れられる者は、ごく少数です」
その写しから、王子を守った線だけを抜き取り、家々の内証を「盗み見た」記録に仕立て直す。紙を換え、手を三人使い、綴じ直して、断罪の夜に高く掲げる。
「……守った記録が、そのまま、あんたを刺す刃に使われたのか」
アルディスの声は、低く軋んだ。
「なぜ、あの場で言わなかった。読み上げられた三つが暗殺の調べだと明かせば——」
「証すには、これを開くしかありません」
ロザリンドは、手帳の上に手を置いた。
「鳥籠を宮廷で開けば、符号は死にます。符号が死ねば、網の中の伝令が死にます。あの夜、王国の網には、まだ二百人からの伝令が居ました。……天秤にかけただけです。わたくしの名誉と、二百人と」
アルディスは、長いこと天井を仰いでいた。それから、絞るように言った。
「……王都の連中は、それを知らん。知らんまま、あんたを罪人と呼んで、いままた刷り物で呼び直している。俺は——」
「アルディス様。これは、ここまでの話です」
ロザリンドは、静かに遮った。
「王都に明かせば、殿下の御身がいまも軽くないことまで、敵に報せることになります。……それに、これは弁明の種ではありません。ただの、古い帳面です」
武人は口を結び、頷く代わりに、帳面へ向かって一度だけ頭を下げた。誰にも言わん、と最初に約した言葉を、そういう形で結び直した。
帳場の隅で、薪を抱えたまま立ち尽くしていたピナが、堪えきれずに洟を啜った。盗み聞きを咎める者は、今夜はいなかった。
「お嬢は……お嬢は、それでいいんですか。守った相手に、断罪されて。いまさら罪人って刷り物まで撒かれて。悔しくないんですか」
「悔しい、とは少し違います」
ロザリンドは、少しだけ考えてから言った。
「あの夜のことは、もう帳尻が合っています。わたくしは王都を出て、この店と、あなたたちに会いました。……ですから殿下の元へは、戻りません。恨みではなく、締めた帳面だからです」
それから彼女は、机の刷り物と偽封を、並べて置いた。
「それより、こちらの帳面がまだです。——二年前の暗殺も、今度の偽封も、手口が同じです。本物を殺さず、本物を少しだけ曲げる。金の筋を空箱で洗う。よく調べた上物の紙。……同じ癖です」
尾を持ち上げた蠍の印影を、彼女は指先で叩いた。
「蠍。あなたは二年前にも、この王国に居ましたね」
顔のない敵の輪郭が、初めて、過去と現在の二点で結ばれた。点がふたつあれば、線は引ける。彼女は十年、それだけをやってきた。
「アルディス様。ひとつ、お願いがあります」
「金か。人か。どちらも出す」
「両方です。それから——」
ロザリンドは顔を上げた。その目は、谷の底にいる者の目ではなかった。
「封を、全部替えます」
盗み見と呼ばれた報せは、王子の命を守った報せでした。それでも彼女は戻りません。帳面は、もう締めたそうです。
次話、反撃です。十年温めた「黒」を、ようやく開けます。
※ブックマークは何年経っても回収できます。この店と同じで、落としません。




