第18話:報せを迷わせる者
帝都の諜報院に、その部屋はある。
窓は小さく、机は大きい。壁の一面は王国の地図で、駅逓の中継所が鳥の名で書き込まれている。王国の官吏でも諳んじられぬ符号を、この部屋の主は諳んじる。
「国境の偽報の件、締めくくりの報告を」
ヴォルクハルトは、書き物の手を止めずに言った。若い副官が背筋を伸ばす。
「は。『二万』の流言は、かの女ギルドの伝令が半日で実数を検分し、失敗と相成りました。……面目もございません。駒の走りが、想定の三倍で」
「駒、か」
諜報卿は、そこで初めて顔を上げた。
「おまえの目にはあれが駒に見えるか。ならばおまえは、この部屋には向いていない」
叱っている声ではなかった。それが、かえって副官の背を冷たくした。
「よく聞け。報せを運ぶ網には、二つの殺し方がある。ひとつは伝令を殺し、鳩を落とし、道を塞ぐこと。——これは下策だ。網は破れた所から強く編み直される。現に王国の官営は、わたしが指一本触れずに勝手に死んだが、あの女の網は嵐でも死ななかった」
「……もうひとつは」
「網は、生かしておく」
ヴォルクハルトは、書き上げた紙に慣れた手つきで封をした。黒に近い深緋の蝋。尾を持ち上げた蠍。
「速い網ほど、毒も速く回る。あの網は誰より速く、誰より信じられている。——ならば、信じられなくしてやればいい。網が丈夫なら、報せを迷わせる。着いた報せが本物かどうか、受け取った者が夜ごと迷うようになれば、網は生きたまま、ただの紐になる」
副官は、机の上の封書を見た。宛名は、王都の安宿である。
「先だって雇い入れた男がいる。王都の駅逓崩れの、封蝋の彫師だ。腕は良い。職を失って、酒と借金だけが残った男だ。……あの女の店の封は、市場の壁に規則が貼り出してある。親切なことにな」
諜報卿は、初めて薄く笑った。
「公開された規則は、公開された設計図だ。彫らせろ」
副官が下がったあと、ヴォルクハルトは机の抽斗から、一冊の綴りを出した。
表題は、符号でしか書かれていない。中身は、北の令嬢についてこの半年で集めさせた紙の束である。断罪の経緯。駅逓の来歴。ギルドの陣容。そして王都社交界での、かつての渾名——壁の花。
その頁の余白に、諜報卿は自分の手で、短い書き込みをしていた。
王都、彼女の値を知らず。値を知らぬ者が、値を付けた。
彼は頁を閉じ、机の隅へ置いた。敵の値打ちを正しく量ることにかけて、この男は、王国の誰よりも彼女に対して誠実だった。皮肉なことに。
〈コッブへ。手付けの残り、同封。品は三つ。緋、藍、印章の傾きは指示のとおり。納めは十日のうち。出来が本物に劣れば、支払いは無い。出来が本物に勝っても、支払いは無い。本物と同じであることにのみ、金を払う。〉
封書は翌朝、商隊の荷に紛れて国境を越えた。
受け取ったのは、王都の場末の安宿である。
コッブは指示書を読み、革袋の中の手付けを数え、それから、押し入れの奥の道具箱を出した。二十年、駅逓庁の官封を彫ってきた道具である。庁が潰れたとき、俸給は三月分踏み倒され、道具箱だけが手元に残った。
あの女の店の封は、良い仕事だった。彫師の目で、いつも感心して見ていた。それを写せというのだから、世の中は分からない。
——忠義に値を付けなかった連中が悪いのさ。おれにも。あの女にも。
男は手酌で一杯だけ呑み、灯りを引き寄せて、彫りにかかった。腕の良い男が、良くないことに腕を使うときの、静かな手つきだった。
そのころカルテンの帳場では、夜の習いごとが続いていた。
閉店後の机で、ピナが石盤に字を書く。ロザリンドが直す。始めて四月あまり、少女の字は「読める」から「速い」に差しかかっていた。
「お嬢。『疑』って字、なんでこんな画数多いんですか。疑うのなんて一瞬なのに」
「一瞬で書ける字にすると、皆が気軽に書くからでしょう」
「……字を作った人、頭いいですね」
その手習いの机の隅に、この十日で、小さな引っかかりが三つ、届いていた。
ひとつ。川湊の蝋問屋から、定期報のついでの世間話。「近ごろ、緋色の封蝋の注文が妙に多うございます。それも上物ばかり」。
ふたつ。市場の読み上げ役の見習いから。「壁の規則書を、写していく人がいました。商人さんかと思ったんですけど、品目の紙は写さないで、封蝋の決まりだけ」。
みっつ。王都の契約便の検収で、商務局の書役がこぼした一言。「そういえば、駅逓庁付きだった彫師のコッブが、ふた月前から消えております。借金取りも行方を摑めんそうで」。
ロザリンドは、三つの紙片を帳場の机に並べた。
「お嬢。それ、また例の『線にする』やつですか」
ピナが、帳簿の写しを抱えたまま覗き込む。
「蝋が動いて、規則が写されて、彫師が消えました」
「……ばらばらに聞くと、なんてことないですね」
「ばらばらに聞かせるのが、上手いのです」
ロザリンドは、紙片の位置を並べ替えた。蝋。規則。彫師。どの点も、それだけなら世間話で流れていく。だが線にすると、向かう先はひとつしかない。
「誰かが、封を写しています」
帳場が、静かになった。マルロが帳簿から顔を上げ、ドナウが鳩の餌の手を止めた。
「写して、どうするんです。偽の封で、偽の報せを——」
「流します。うちの名前で」
ピナの問いに答えた声は、いつもどおり平坦だった。平坦なまま、ロザリンドは立ち上がり、壁の王国地図を見た。赤い線で引かれた、彼女の網。速くて、太くて、どこよりも信じられている網。
毒がいちばんよく回る網でもある、ということだった。
「マルロ。至急でも定期でもない便を、全所に出します。文面は——」
言いかけた、そのときだった。
市場の方角から、人の騒ぐ声が聞こえた。競りの喧嘩の声ではない。もっと嫌な、粘つく種類のざわめきだった。帳場に飛び込んできたのは、読み上げ役の見習いである。
「嬢様! 市場に、緋封が——峠道が崩れたって緋封が回ってて、でも、うち、そんな便、出して……!」
出していない。
ロザリンドは、外套を取った。
敵は網を斬りません。網に毒を流します。
次話、偽物の緋封が市場を走ります。本物そっくりの。
※ブックマークは本物です。偽物はまだ確認されていません。




