第17話:玉座からの、注文書
オルコット伯の帰参の口上は、半刻に及んだ。
いかに無礼であったか。いかに不遜であったか。王家の威光がいかに軽んじられたか。評議の間の重臣たちは、神妙な顔でそれを聞いた。聞き終えてから、末席の老貴族が、疲れた声で訊いた。
「して、報せは。いつから届くのだ」
口上には、その一点だけが入っていなかった。
「……で、ですから、交渉は決裂で」
「決裂。ではレムリアへの返書は、今後どうやって届ける。北部の被災村の検分は。東の相場は。——伯よ、この冬、貴公の屋敷の粉の値がいくらになったか、ご存じか」
オルコット伯は、答えられなかった。屋敷のことは家令に任せてある。その家令が近ごろ、げっそりと痩せたことしか知らない。
「王家が、商家と契約するなど」
誰かが言った。前例がない、体面が立たぬ、と続く。ひとしきり回ってから、その言葉は力尽きて、静かになった。前例も体面も、この半年、パンを一枚も焼かなかった。
「よろしいでしょう」
沈黙を破ったのは、宰相ギデオン・クロフトだった。
「契約なさいませ」
一同が、意外の顔で宰相を見た。あの女の追放に頷いた筆頭が、宰相だったはずである。
「北の網は、いまや王国で唯一、生きている網でございます。死なせては、なりません。……民のためでございますよ、無論」
温和な微笑は、いつもどおり、どこにも引っかからなかった。ただ廊下に下がってから、宰相は側近にだけ低く言った。
「死んだ網には、値が付かん。……生かしておけ。太らせておけ」
いずれ括る日まで、とは、口に出さなかった。
契約の条文は、北から届いた雛形のとおりに整えられた。手を入れる余地が、なかったのである。
官用定期便は藍等級、条数と経路により料金別定。至急便は緋等級、割増あり。支払いは前金。そして末尾に、短い一条があった。——配達の順は、等級と受付の順による。依頼人の身分による先後は、これを設けない。
読み上げた書記官は、そこで一度、喉を詰まらせた。王家の注文書に「身分による先後を設けない」と書かれた紙は、建国以来、これが最初である。
署名の段になって、レオニスは長いこと、羽根ペンを持ったまま動かなかった。
「……俺に、あの女への注文書に、判を押せと」
「殿下」
クロフトの声は、慈父のようだった。
「これは注文書ではございません。王家が北の一商会に、慈悲深くも取引をお許しになる——そういう体裁の、紙でございます」
「体裁か。またそれか」
王子は吐き捨て、それでも判を押した。押してから、紙の隅の一行に目が止まった。支払いは前金にて。王家の信用では、後払いが利かないのだ。誰も口に出さず、全員がそれを分かっていた。
その夜、レオニスはまた、私室の窓辺に立った。
北へ発つ契約の使いは、明朝の出立だという。ふと、婚約者だったころの茶会を思い出した。黙って座っていた、あの女。何を考えているか分からんと詰った、あの沈黙。
——あの沈黙の向こうで、こちらの何もかもが数えられていたのだとしたら。
考えは、今夜も形になる前に萎んだ。正しかったことに、しておかねばなりません。宰相の声は、便利で、温かく、そして底が見えなかった。王子は窓帷を閉めた。閉める手が、以前より少し、重かった。
契約の一便が王都に着いたのは、それから六日目の朝である。
伝書塔に、半年ぶりに翼が降りた。当直の文官は受け箱に駆け寄り、封蝋の色を見て、少しの間、動けなかった。藍色。定期便の色である。王宮宛ての第一便は、緋色の至急ですらなかった。
〈王都商務局宛て、定期相場報・第一号。北部三領の穀物、川湊の魚、塩、油、以下三十七品目。次便は三日後。 翼の座〉
読み上げられた三十七品目は、その日のうちに市場の競り台に貼り出された。ひと冬ぶりに「準用」の文字が消えた朝市で、粉屋の親爺は値札を三度書き直し、書き直すたびに値は下がった。
パンの列に並んでいた若い母親は、財布の中の銅貨を数え直し、それから、列の隣の女房と顔を見合わせた。どちらからともなく、笑った。理由は、うまく言えなかった。ただ、明日の値が分かるというだけのことが、こんなにも呼吸を楽にする。
同じ週、外務の書記局からは、別の音が漏れ聞こえた。レムリアへの返書が、半年ぶりに期日どおり隣国へ着いたという。使われたのは、無論、官営の網ではない。ギルドの定期便に、藍封で載っただけである。
抗議の使節を寄越すほど怒っていた隣国は、期日どおりの返書一通に、拍子抜けするほど態度を軟らげた。外交とは要するに、約束が守られるかどうかの話であるらしかった。
老侍従セドリックは、その朝市の様子を、手控えに書き付けた。
粉、値下がり。列、短くなる。競り台に日付のある紙、戻る。
書いてから、少し迷って、もう一行を足した。
——王家、初めて報せに代価を払う。前金にて。
北の帳場では、ピナが王都からの前金の革袋を抱えて、しげしげと眺めていた。
「王都のお金って、重いんですね」
「重さは同じです。どこの銀も」
「でも、なんかこう……ざまぁって音がしません? 振ると」
「しません。仕舞いなさい」
ロザリンドは帳面に「王都商務局」と記帳した。字面はエルシーの羊毛商会や、川湊の船元と同じ扱いである。台帳の上で、王都はこの日から、数ある客のひとつになった。
彼女はふと手を止め、頁の上をしばらく見ていた。
十年、無償で届け続けた相手だった。感慨はあるかと自分の胸に問い、たいして無い、と分かって、それで仕舞いにした。仕舞いにできることが、たぶん、いちばんの答えだった。
その報せは、南の国境も越えた。
帝都の一室で、書記官が読み上げる。「王国、北方の通信ギルドと正式に契約。窓口は商務局。前金払い」。
執務机の男は、地図から顔を上げなかった。カルテンの位置に、小さな黒い駒がひとつ、増えた。
「王家が、頭を下げたか。……いい網だ」
男は初めて笑い、机の上の印章——尾を持ち上げた蠍の彫りを、指先で撫でた。
「では、そろそろ齧ってみよう」
帝国諜報卿ヴォルクハルト。それがこの男の、名である。
王都、正式に「お客様」になりました。前金です。
そして南の男に、ようやく名前が付きました。次話、この男の手口の話をします。
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