No.95 頼み事をもう一度
先生はいつになくやたらと周囲を警戒し、きょろきょろとせわしなく辺りを見回す。
耳も真っ赤になってるし。
どうした?
「あ」
僕がまばたきをした隙に、ガイウス先生は脱兎の如く逃げ出した。
まぁ速いこと。
この無駄に広い校舎の中じゃ、すぐに見失いそうだ。
そんなに知られたくない事だったのか?
まさか、あのガイウス先生が逃げ出すなんて。
それも、生徒である僕から。
教師としての尊厳は無いのか?
まぁ、どのみち追うけど。
まっすぐ行って左。
さらにまっすぐ行って、渡り廊下を渡った突き当たりを右。
階段があるから下りて、下りて、また下りて、一階まで下りる。
生徒が多いな。
人と人の間を縫うように走って、もっともっと、ずっと直進。
校舎の端まで来たら、左。
そしたら……
――外。
よく手入れのされた芝が広がり、空も青く開放的だ。
となると、当然障害物も少ない訳で……
ガイウス先生のスピードが上がる。
みるみるうちに、先生の背中が小さくなっていく。
いや、どんだけ必死なんだ。
完全に僕を振り切ろうとしている。
ありゃあ流石に無理だ。
追いつけない。
…………なぁんて、嘘に決まってるだろ。
だって人じゃないんだもの。
さて、人外の膂力というものを見せてあげましょうか。
ぐっと地面を蹴る力を強め、足の回転数を上げる。
まぁ、いくらなんでもこんな誰の目にもつくような場所で、あれはやらないけどね。
加速。
耳の横を通り過ぎる空気が、ごうごうとやかましく音を立てる。
ほんの十秒程度。あっという間に先生に追いついた。
抜き去る直前で速度を落とし、並走して先生の方へ顔を向ける。
なんでだろう、ちょっと笑いがこみ上げてくる。
「分かってると思いますけど、単純な体力勝負じゃ逃げられませんよ」
「っ! ぐぅ……」
ようやく観念したのか、ガイウス先生 はスピードを落として立ち止まった。
あれだけ走り回って、たいして息が上がっていないのだからたいしたものだ。
剣がうんぬん以前に、基礎的なところの運動能力が半端じゃない。
僕?
もちろん、息切れ一つしてないけれども。
まあそこは比べるもんじゃない。
というか、比べたところで意味が無い。
「どうして逃げるんですか?」
「……」
ガイウス先生は頑に僕と目を合わせようとしなかった。
下唇を噛み、今や耳どころか顔全体が赤く染まっている。
僕は全てを察した。
これは、かつて僕も患っていた厄介な病、あたかも自分が何か特別な存在であるかのように錯覚してしまう『アレ』……その、後遺症によく似ている。
「あー、はいはい。その顔で分かりますよ。そんなに恥ずかしいですか、『剣鬼』と呼ばれるのが」
「…………俺の……黒歴史を漁るな」
それは、聞いた事の無いくらいに弱々しい声だった。
先生は頭を抱えてしゃがみ込む。
上空を飛んでいった鳥が、馬鹿にするようなかん高い鳴き声を上げた。
小さな黒い影が、さっと先生の上を通り抜ける。
「昨日偶然会った女剣士さんに聞いたんです。二つ名の由来とか、冒険者の剣士なら知らない人はいないって事とかも。良いじゃないですか、二つ名持ちのSランクだなんて。彼女、あなたのファンだそうですよ」
「……ファンだって? ……冗談じゃない」
顔は下げたまま、ガイウス先生は自嘲気味に笑った。
「若気の至りってやつだよ」
「今でもまだ若いじゃないですか」
先生の見た目は、だいたい二十代後半から三十代くらい。
転生前の僕の知識が告げる。
その年齢で『若くない』は、俗に“壮年”と呼ばれる人達に対して失礼だと思う。
「それでも十年前はまだ若かったよ。ハァ、三、四十年も、感情まかせにあんなくだらない……」
……んん?
なんか、思ってたのとちょっと違うな。
あぁー……そういえば、魔人族の寿命は確か二百年くらいだっけ?
そうか、人間は種族ごとに寿命が全然違う……
……なんか、感覚狂うなぁ。
「ところで、先生っていくつなんですか?」
「……五十四……」
……前世を含めた僕のちょうど二倍…………
竜やエルフだけじゃない。
無理だ。この世界で、相手の見た目から年齢を想像するのは。
なんだよ、ことごとく感覚狂うなぁ……
「で、それはいいとして。恥ずかしいのは分かりますけど、一体何をどうしたらそこまで……」
――あれ。
何か、最悪な方法を思いついてしまったかもしれない。
どうせこれ以上本人を問い詰めたところで、答えてくれる事は無いだろう。
だが、本人以外ならばどうだ?
たとえば……
「ガイウス先生」
「……」
「あなた……ヨセフ先生とはいつから知り合いなんですか?」
「!!」
その名前を聞いた瞬間、ガイウス先生はバッと顔を上げた。
見開かれた目の、赤い虹彩が小刻みに震えている。
……なるほど、図星か。
「じゃあ……」
「やめろ! あのジジイには何も言うな!!」
跳ねるようにして立ち上がり、先生は叫ぶ。
まだ、なにも言ってないのに。
「マジでやめろよ。あいつなら絶対嬉々として語りやがる。だから……絶対聞くな!!」
圧がすごい。
そこまでか。
そこまで嫌なのか。
そうまで必死に言われると、流石に聞こうにも聞けないじゃないか。
僕にだって良心はある。
ぶっちゃけ先生の過去には興味しかない。
けれど、ここで食い下がったら本気でキレられそうだ。
それに、ガイウス先生には僕の秘密を握られている事だし。
「そこまで言うなら、ヨセフ先生には何も言いませんよ」
「本当か?」
「本当ですよ」
「嘘つけ、お前はそう簡単に諦めるようなやつじゃあねぇだろ。信じられるか」
おっと、流石、僕の性格を分かっていらっしゃる。
でも、今回は本当に言う気はないのに。
どうやったら信じてくれるかなぁ……
「そうだ、見返りを求めれば信じてくれますか? 僕はあなたの過去についての話を誰にもしない。その代わり、先生は僕が剣を選ぶのを手伝ってください」
先生の訝しげな視線が少し弱くなる。
いける。
これなら。
「選ぶのを手伝う程度で、釣り合うか? 俺にどうそれを信じろと?」
「釣り合いますよ。僕は武器の良し悪しなんて何一つ分かりませんので。ほら、だってもともと必要ないでしょう? 逆に先生は専門家みたいなもんじゃないですか」
「……それで、言わないと本当に誓うか?」
「誓いますとも」
「……それなら」
ガイウス先生は渋々ながらも小さくうなずいた。
よし、僕の勝利だ。
まぁ、もともと手伝ってほしいとは頼むつもりだったから、見返りにはなっていないんだけれど。
先生なら、こんな事じゃなくてもどのみち手伝ってくれていただろう。
感謝しなきゃな。
昔の事は知らない。
でも、なんだかんだ言って良い人じゃあないか。




