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No.76 アクト・キングスランドの受難

 さて、そんなこんなでアクトがラクレアリスの弟子になって、一日目……


「んじゃま、これで契約成立って事で。あ、私ちょっと出かけてくるね〜」

「……は? え、今……」


 ――バタン。


 ドアが閉まる音がした。

 振り返ると、ラクレアリスはもういない。


(正気か? あの女……)


 ベッドから下り、ふらつく足でアクトはドアに向かう。

 急いでドアを開けた先に広がるのは、ただただ広大な森。

 ラクレアリスのいる気配はもう微塵も残っていない。


「冗談じゃない……」


 諦めてドアを閉じ、アクトは頭を抱えた。


 自由すぎる。

 こちらの事情は考えず、好き勝手遊んでいった上に放置?

 流石にそれは無いだろう……


「魔女め……」


 しゃがみ込みうつむくアクトの目に、さっき自分がぶちまけた果実が飛び込む。


 冷静さを欠いていたとはいえ、今考えると我ながら酷いやつだ。

 あんなやつでも、善意で持ってきてくれたってのに。


 心にかすかな後悔がにじみ、アクトは頭をかいて立ち上がる。


「とりあえず、掃除でもするか」




◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆




 二日目。


 結局、昨日一日の内にラクレアリスは帰ってこなかった。

 すみからすみまで磨き上げられ、ホコリ一つない部屋のベッドの上に座り、アクトは腕を組む。


 腹が減った。


 最後に食ったものは昨日のにせりんごだ。

 それに食事はおろか、あれから水の一杯も飲んでいない。


 アクトは水と食料を求め、小屋を出て森の中へと()を進めた。


 小屋の周囲は葉が薄く明るかったが、少し進むとすぐに、鬱蒼とした木々に辺りはどんよりと暗くなった。

 土がむき出しの黒い地面になんだか不安になってくる。

 光のほとんど無い森の中は、春だというのに肌寒かった。


 耳を澄ませると、左の方から水の流れる音が聞こえてくる。

 音に導かれるままに木々の合間を縫って進むと、やがて木漏れ日のさし込む美しい沢が現れた。


 小鳥が水浴びをし、魚が数匹流れに逆らって泳いでいるのが見える。

 アクトは沢に駆け寄ると、膝をついて水をすくい、喉の奥に流し込んだ。


 渇いた体に水が染み渡る。

 これで水の問題は解決した。

 食料の方も、沢を泳ぐ魚でなんとかなりそうだ。


 アクトは静かに腰の剣を抜き、じっと魚に狙いを定めた。

 神経をとがらせ水面を見つめる。

 魚の尾びれが動きを止め、すっと後ろに流された瞬間。アクトは素早く突きを繰り出した。


 カンと剣が岩にあたる音。

 小さくしぶきが立ち、水面が細く赤く染まる。


 アクトが剣を掲げると、剣先には銀に鱗の輝く魚が一匹、しっかりと突き刺さっていた。


 狩りの成功に、アクトは満足げな笑みを浮かべる。

 やっと食料も手に入った。

 後はこいつをしっかり焼いたら完璧だ。


 アクトは昨日の味気ない果実以来の食事に思いを馳せ立ち上がる。

 ……その時だった。




 ――パキン。




 後方で枝の折れる音が響いた。

 それと同時に、ぬっと辺りが暗くなる。




 ゴルルルル……




 低い唸り声に、荒い鼻息。


 いる。

 後ろに。

 やばいやつがいる。


 全身をこわばらせ、アクトはゆっくりと振り返った。


「――く!」


 ぎらついた黄金(こがね)色の双眸がアクトを見下ろす。

 (つや)やかな黒い毛並は、しっとりとしていて獣臭い。

 その巨大な獣の赤黒い口からのぞく白い牙は、人の腕ほどの長さがあった。




 フシュウゥゥゥゥ……




 獣の鼻から生臭い空気が吐き出される。


 ふと気がつくと、アクトはその獣に背を向け、がむしゃらに走り出していた。




 ――死。




 後方から、木のなぎ倒される音が聞こえる。




 ――――死ぬ。




 肺が焼けるように痛い。

 さっき口にした水の冷たさを、体はすでに忘れていた。

 風の音を破って、獣が吠える。




 ――――――死にたくない。




 見覚えのある小屋が見えた。

 渾身の力を振り絞って中に飛び込む。

 獣が急ブレーキをかける音に、不愉快そうな唸り声。


 グルゥゥ……


 心臓が早鐘をつく。

 ここが赤竜の根城だと知っているのか、足踏みをするも、獣はそれ以上近づいてこない。


 アクトが必死に息を殺していると、やっと諦めたのか、獣は踵を返して森の中へと去っていった。


「なん……はぁ……うっ、…………っぶはぁ!」


 アクトはどっと床の上に倒れ込んだ。

 ラクレアリスへの冷たい恐怖とはまた違う。

 あんな意識の底から生存本能をかきたてられるような感情は生まれて初めてだ。


 落ち着いてきたところで、アクトは右手にぬちゃりとした嫌に冷たいものを感じた。


 右手に目を向けると、剣は血とぬめりに(まみ)れている。

 剣先に突き刺した魚は、いつの間にやら剣の根本まで落ちてきていて、だらりと力無く揺れていた。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 三日目の昼。


「たっだいま〜! 少年〜、良い子にしてたか〜?」

「…………遅い」


 三日目にして、ようやくラクレアリスが帰ってきた。

 ベッドの上でうつ伏せになっていたアクトは、気だるそうに顔を上げ、長い赤髪を結ばぬままに悪態をつく。


「よくもこんな危険地帯に丸二日も放置しやがったな、魔女め」

()()()二日でしょ。五年や十年放っておいた訳でもあるまいし」


 ラクレアリスは手をひらひらと顔の前で動かす。

 彼女にとって、二日は本当に“ちょっと”の感覚らしい。


 こいつの気まぐれで、もしかすると自分は年単位でこの森に置き去りにされていたかもしれない。

 そう考えてアクトはぞっとした。


 一昨日のあれも、ラクレアリスにとっては“数分出かけてくる”程度の話だったのだろう。


「ん? 危険地帯? 昨日一昨日でこの辺に何かあったの?」

「ああ! おかげでな! 食料を探してたら、危うくこっちが黒獅子のエサになるとこだったよ!!」


 アクトは額を枕にこすりつけ叫ぶ。

 間近で見たヤツの顔は、いまだに脳裏にこびりついて離れない。


「ありゃま、あのでっかいネコチャンと鉢合わせたの。ご愁傷さま」

「ふざけるな!! 黒獅子がうろついてるってんで分かったぞ。ここはゼフィル大樹海だろ。エルフですら寄りつかない魔の森だぞ!」

「そうよ。人がいないから便利なの、ここ」

「……」


 駄目だ。

 話が噛み合わない。


「んじゃあさっそく師弟らしい事するかぁ。さっさと準備して表に来なさい。いつまでも寝てないでね」

(寝れてねぇんだっつーの!)


 ラクレアリスを制止しようと腕を伸ばすも、バランスを崩してアクトはベッドから床の上に転げ落ちた。


 窓の外から、太陽光がダイレクトに顔の上に降り注ぐ。

 アクトは目を細めつつ、格子の組まれた天井を振り仰いだ。


 ――苦難の道は、どうやらまだまだこれからのようだ。

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