No.75 理不尽とは
「――っはぁ! はぁ、はぁ…………ここは……?」
木漏れ日が窓からさし込む。
アクト・キングスランドは柔らかな白いシーツの上で目を覚ました。
外からは鳥のさえずりと、風に木の葉がざわめく音が聞こえる。
いつもの学園ではない。
どこかの森の中だろうか?
「あれ、随分と早かったわね。普通ならあと三日は起きないものなんだけれど……」
扉が開くと同時に聞こえた声に、アクトは反射的に身構えた。
「はぁ、もう、色々面倒臭いわね。別に取って食いやしないっての。あんた達人間は一体私達の事を何だと思ってるわけ?」
ラクレアリスは溜め息をつきながら、手に持ったかごをサイドテーブルの上に下ろす。
かごのなかには、露の光る木の実や果物がいっぱいに入れられている。
「……」
「まぁ良いわよ。その反応になっちゃうのがあなた達のせいじゃないのは知ってるし、今までさんざん“そーゆう顔”は見てきたから。いまさらどうって事はないわ」
どこか寂しそうな表情のラクレアリス。
アクトにはラクレアリスの言っている事の意味が、よく分からなかった。
分かるのは、彼女が人間にはどうにもならないほどのただただ圧倒的な力を持っているという事だけ。
昔話の怪物が現に目の前にいるとすれば、誰だって恐怖するのは当然の事だろう。
だが……
「あなたは……『竜』ですか……?」
「えぇ、そうよ。『赤竜』。ラクレアリス・ハルバルテ、それが私」
「……竜……本当に、いたのか……」
恐怖はある。でも、不思議とアクトには彼女が伝承にあるような恐ろしい存在には思えなかった。
ラクレアリスが人間に近い形をとっているからではない。
もっと根源的な何か――『絶望』に近い感情が、心の奥底から拭い去られたかのような感覚だ。
「そのかごの中身は……?」
アクトはラクレアリスからサイドテーブルの上へと目を移す。
「あなたのよ。私には必要無いからね。さっき人間でも食べられるやつを採ってきたの。味もたぶん大丈夫なはず。私はアリオトほど悲惨じゃないから」
ラクレアリスはかごの中から果物を一つ取り出してアクトに手渡した。
黄色く、モモに似た見た目のそれはこの世界では『にせりんご』と呼ばれている。
アクトは訝しみながらも、にせりんごを口元へ近づけた。
なぜか今は酷く腹が減っている。
何でも良いから、とにかく今は食べれるものが欲しかった。
一口かじるとみずみずしい甘さが口の中に広がる。
わずかに舌の上に残る渋味はあるが、食えなくはない。
「どう? いける?」
「……まぁ。美味い、とまではいきませんけど」
ラクレアリスから目をそらしそう控えめにこぼすも、アクトはやはり果実にかぶりつく。
その姿を見て、ラクレアリスは満足そうに尾を揺らした。
ラクレアリスはアクトにかごを渡し、しばらくじっと見守っていた。
だが突然、ふと思い出したかのように真剣な面持ちになる。
「そのままで良いから聞いてちょうだい。私があなたに何をしたのか」
「俺に……?」
アクトは目が覚める前、本棚に囲まれた部屋での記憶を思い返す。
絶望やら恐怖や憎しみやらでごちゃ混ぜになった感情。
骨を砕かれ、内臓を潰され、体の内でぐちゃぐちゃにかき混ぜられるかのような想像を絶する痛み。
そしてそれらの発端となった――ラクレアリスの血液。
「そうだ……俺、あなたに血を飲まされて……」
アクトはラクレアリスの右手に目を向ける。
当時はあれほど血の湧き出ていた傷は、今はもう癒え跡形も無い。
「ええ。あなたがそう望んだからね」
ラクレアリスは部屋の中央の机の引き出しを開け手鏡を取り出した。
ベッドサイドに戻ると、アクトにその手鏡を向ける。
「これは実際に見てもらった方が早いでしょ」
ラクレアリスが手に持つのは、確かに何の変哲も無いただの手鏡だった。
鏡の中にアクトの姿が映る。
「なんっ、」
アクトは反射的に自分の目元に手をあてた。
何度鏡の中の像を見ても、そこに映っているものは変わらない。
そこにあったのは間違い無くアクト自身の顔のはずだった。
でも、明らかに一つだけ“違う”のだ。
(目が……)
――虹彩が、赤く光り、縦に割れた猫の目のような瞳孔。
普段見慣れた灰目じゃない。
それに、これは人の目ですらない。
これはラクレアリスの――『竜』の目だ。
「別に人間じゃなくなったって訳じゃないわよ。どんなに逸脱していたとしても、あくまで人は人だからね。ただ、あなたを私の『眷属』にさせてもらったの」
「眷属……?」
ラクレアリスの表情に意地の悪い笑みが戻る。
同時にアクトは背筋が急激に凍りついていくのを感じた。
そうだ。
目の前の“彼女”は人間ではないのだ。
時折見せる表情にいくら気を惑わされたとしても、やはり人とは違う理で動く存在なのだ。
思えばあの花畑で最初に彼女を見た時もそうだった。
いや、むしろそのずっと前からもそうだ。
階段の仕掛け、無駄に長い通路、人形、檻の中の人質…………
ただの悪意でここまでの事はしない。
『それ』をやる事に何か大層な意義があった訳でもない。
今なら分かる。自分はサイラス・グラウリスがさらわれるところを偶然目撃したんじゃない。
――“見せられた”んだ。
…………ラクレアリスに。
「そう、まさに。全ては私が楽しむ為に」
「っ!」
「ああ、いや、別に心を読んだ訳じゃないわよ。あなたのその顔見たら、だいたい分かるもん……」
警戒を強めたアクトに、ラクレアリスは小さく溜め息をつく。
「あなたは知らないでしょ? 私達には『欲』も『願い』もほとんど無いの。命を脅かす敵はいないし、厳密には“生物”じゃないから、子孫を残す為に必死になる必要も無い。そのくせして、無駄に寿命だけは長い。何の苦難も無く生きるのって、実は結構辛いんだよ」
ラクレアリスはぼうっと窓の外の景色を眺めた。
外の木の枝では、小鳥の番が仲睦まじく羽繕いをしている。
「……」
握り締められたアクトの拳が震える。
どこか価値観のずれたラクレアリスの話にだんだん腹が立ってきた。
圧倒的強者の悩みまど知ったものか。むしろ知りたくもない。
この女は知っているのか?
どれだけ努力を重ねても、粗悪な代替品としか見てもらえない人生がどんなものか。
強すぎる執着のせいで死のうにも死ねない。それが一体どれほどの苦痛であるのか。
赤黒い感情、腹の中でぐるぐると渦を巻く。
「――こせよ」
「うん?」
アクトはラクレアリスの胸ぐらを掴み引き寄せる。
かごが音をたてて床に落ち、中に入っていた果物が散らばった。
「だったらよこせよ。力とやらを、全部。俺で遊んでたんだ、そのくらい出来るだろ? 目的の無い生が苦痛だと言うのならな……」
「へえ、私を脅そうっての。自暴自棄は良くないぞ、坊や。でもま…………その顔は良き」
ラクレアリスは立ち上がると、アクトを見下ろし眼を細めた。
ビリビリと放たれる異様な空気に森の木々がざわめく。
「良いよ。そもそもこっちははなからその気だったんだ。後は君が好きにするが良いさ」
しばらく赤く光る目でアクトをじっと見つめると、ラクレアリスはそう楽しそうに言い放った。
「とにもかくにも、なんだかんだでよろしく頼むよ。生意気な弟子」
「……ふん」
アクトは不機嫌に横を向く。
これ以上この人外にとやかく言うのは不毛だと悟った。
何を言おうにも向こうのほうが上手。
つまるところ、この理不尽には従うより他に無いのだ。
ラクレアリスは少女のようににこにこと笑っている。
アクトは眉間にしわを寄せると、深く、長く、溜め息をついた。
――かくして、アクトの苦難の日々は幕を開けた。




