No.74 憎しみの対価
「師匠、この資料はここに置いておけば良いですか?」
「ああ、うん、そうそう。適当に置いておいて。いやぁ、あなたが来てから色々ラクで助かるわぁ」
どことも知らぬ山奥。
その森の中に隠された小屋で、赤髪の少年は部屋の隅にドサリと大量の紙束を下ろした。
少年――アクトは顔を上げると、一瞬窓の外の景色に目を向け息を吐く。
小屋の中にはカリカリと紙にペンを走らせる音が響く。
音をたてている主は紅色髪の女だ。
……時はさかのぼって一ヶ月前。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
(俺は、メルトの……なんかじゃない……)
サイラスを噴水に突き落とし、一人寂れた地下広場に残されたアクト。
憎しみのこもった視線の先には金属扉のドアがある。
地面の警告文を踏みつけにして、アクトはじっと扉をにらみつけていた。
冷え切ったドアノブに手をかけ目を閉じる。
許せない。
許せなかった。
何もかもが……自分自身ですら。
幼少の頃から浴びせられ続けた言葉に囚われて、雁字搦めになって動けない。
『踏み込めば命は無い』
警告文にはそう書かれていた。
だが、少年には戻ってくる場所など端から存在しなかった。
(いっそ死ねたら、幾分はましになるだろうか)
ぐっと力を入れて扉を押す。
扉の先には、暗い、暗い、先の見えない一本道の通路があった。
進んでも進んでも道は無い。
どこまで続いているのかも分からない。
もはや前後も、進んでいるのかすらも分からない中で、ただただアクトは歩き続けた。
恐怖も、ここから抜け出せると信じる事も無く、無心で。
何分、何十分と歩き続け、本当に道の終わりなんて存在しないのではないかと思い始めたころ。
突如、アクトの視界がぱっと晴れた。
四方の壁を本棚で囲まれた小さな部屋だった。
「ゼムぅ……チビが生意気に知識ばっかつけやがってぇ……今度会ったら絶対に、ん? お、きたきた」
部屋の中央のロッキングチェアに腰掛け、女は悔しそうに爪を噛む。
女は身を乗り出すように振り返ると、見定めるような眼光でアクトと目を合わせた。
瞬間、アクトは全身の皮膚が粟立つのを感じた。
目の前に座する“存在”が、数刻前に襲われ、あのへらへらと君の悪い笑いをする女である事は間違い無い。
だが、その様相は先程までとはまったくもって異なっていた。
猫のように縦に細く、純度の高いルビーのように紅く透き通った目。
白い肌によく映える漆黒の髪。
美しい、とは思った。
そうは思ったのだが……
…………それよりも圧倒的に濃く、強く、“恐ろしい”と感じてしまった。
ほとんど無意識に、震える指先が腰の剣へと向かう。
「…………はぁ、毎回毎回コレ。本当、根深い呪いだこと」
ポツリと女がつぶやく。
向かう先もなく発された声は、冷たい床石に染み込んで消えていく。
「聞け、人族の少年。ここに来たって事は……分かっているね」
女の声が重く響く。
抗いようのない圧倒的な威圧感。それにアクトの体は『逃げろ』と全力で警告する。
鼓動は速く、血は熱い。
生きのびるには、惨めでも逃げろ。
立ち向かうな。
道が無かろうが、肺が潰れようが走れ。
早く!!
(うるさい!! おさまれ……)
……それでもプライドはそれを許さない。
荒い息のまま、アクトは女の目を光の無い目でにらみ返す。
「…………覚悟なら、とうに出来ている」
「……本当に? …………一つ、警告を付け加えようか」
女は陽炎のように揺らぎ、消えた。
再び姿を現したのはアクトの真後ろ。
クモの巣を想起させるような嫌に絡みつく声で、女はアクトの耳元で囁く。
「この世にはね、取り返しのつかないものがあるんだよ。死んだら生き返る事は出来ないし、犯した罪は消えない。全てを投げ出してでも力を得る意義が、理由が、果たして君にはあるのかい?」
肩に置かれた指と耳にかかる息の感覚に、アクトは身動き一つ取る事が出来なかった。
詰まった息が、凍って重く肺の奥に落ちていく。
“死”は恐ろしいとは思っていなかった。
そのはずなのに、アクトはこの女をこの上なく恐れていた。
事実、悪魔と契約を交わす方がまだ救いの余地があった。
女がアクトに警告したのは、『今ならまだ後戻り出来る』と伝えたかったからでは決してない。
女を一目見た時から、アクトは“それ”を直感的に理解していた。
……ゆえに、一切の反応が出来なかった。
「どのみち君に拒否権なんて無いんだけどさ」
女は口角をつり上げ、冷たい笑みを顔に浮かべる。
アクトは肩から女の手を払いのけ、前方に跳んで剣を抜いた。
震える右腕を必死で左手で押さえる。
噛み締める唇から鉄臭い血がにじんだ。
『影ヨ、己ガ形ヲトドメヨ』
「――――ッ!」
女の艶やかな唇から紡がれた言葉は、アクトには理解が出来なかった。
耳から感じ取った情報は“言葉”ですらない。
低く唸るような、脳をかき回し、空間そのものを震わすような“音”。
それは、自らの身に迫り来る猛る山の火砕流を見ながら、あがきもせずにただ受け入れる事しか出来ないような、どうしようもない絶望だった。
足も、指の一本も動かせず、気絶して倒れ込むことも出来ず、気づいた時にはアクトは文字通り“微動だに”する事が出来なかった。
(何を!)
叫べども声は出ない。
女は赤く鋭い爪を伸ばすと、ためらいもなく自らの手のひらを切り裂いた。
溢れ出す鮮血がとめどもなく床に落ち広がる。
そして身動きのとれないアクトの頬を掴むと、その顔の上に血のしたたる右手を掲げた。
「飲みなさい。一時の痛みを耐えれば大丈夫だから」
そんな言葉をアクトはどこか遠くに聞いていた。
口内に温かくほんのりと甘い血液が流れ込む。
不快で、吐き出したくてたまらないのに、自暴自棄になった理性がそれを拒んだ。
皮肉にも最後の最後に結末を選んだのは、他の誰でもないアクト自身であった。
「あっ、ぐ、ぁあ゛あ゛あ゛ァア゛!!」
仄暗い室内に低い絶叫が響く。
かすれた荒い息と共に、アクトは床の上に倒れ込んだ。
女の拘束はいつの間にか解けていた。
身を内から破壊されるような激痛がアクトを襲う。
全身が痙攣し、意識は朦朧として今にも飛びそうだ。
(痛い。熱い。あぁ、どうして俺ばっかいつも“こう”なんだ……)
途切れ途切れになる意識の中でアクトは女を見上げる。
女は静かに少年を見下ろしていた。
その顔には、もはやあの薄気味悪い笑みは浮かんでいなかった。
(……代償……か…………)
必死になって腕を伸ばすも、掴むべき物は存在しない。
立ち上がり女と相対しようにも、痛みに飲まれた体は全く言う事を聞かない。
(…………メルト…………)
自分の体が自分のものではなくなっていくような感覚。
しばらくは痛みに抗っていたが、それももはや限界だった。
アクトの脳内を占めるのは、いつだって実の弟への憎しみ。
内からの激痛に支配された今も、やはりそれは変わらない。
横になった景色が歪む。
体の内を侵食する何かに身をゆだね、ついにアクトはわずかに残った意識を手放した。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
静かになったアクトの顔を、女――ラクレアリスはじっと見下ろす。
「やはり……危うい」
ラクレアリスは身をかがめると、少年の目元の涙をそっと指でぬぐった。
「はぁ〜あ。でもまぁ、これで少しはマシになってくれると良いんだけどねぇ……」
ラクレアリスはパチンと指を鳴らす。
『穴』はアクトの真下に現れ、少年の体はそれに吸い込まれように落ちていった。
一人になった部屋の中で、ラクレアリスは天井を見上げる。
「さてと、私はこれからあの子を育てる事にしようと思うけれど、あなたは一体どの道を選ぶのかしらね。――――我らの王子サマ」
彼女のひとりごとは、静寂の中へと消えていった。
その言葉の向かう先の者は、果たしてこの先『何』に成る事を望むのだろうか……?




