3. 私の、白百合
「ベアトリス!」
アグネス嬢が振り下ろした短剣を、なにかで受け止めている。しばらくその姿勢でいたが、思い切ったようにベアトリス嬢が腕を振ると、アグネス嬢はその場で後方に転んでしまった。握っていた短剣も、転がり落ちて床を滑る。私は慌てて前に出ると、それを踏みつけて止めた。
「よくも……!」
怨嗟の籠った声を出し、アグネス嬢は彼女を見上げ、そしてベアトリス嬢は、冷え冷えとした目で彼女を見下ろしていた。
なぜ私の前に出た、とベアトリス嬢に詰問している場合でもない。
ベアトリス嬢もアグネス嬢と同じく、短剣を手に握っていた。見るからに使い慣れていて、アグネス嬢では歯が立たなかっただろう。
さきほど衛兵に話しかけていたのは、これか。武器の調達か。
確かに助かったが、それはどうなんだ、と首を捻っているうち、遅ればせながら衛兵たちが集まってきて、アグネス嬢を拘束した。私は踏みつけていた短剣を拾うと、衛兵の一人に手渡す。
思いも寄らぬ事態に固まっていた人々も、じわじわと動き始めた。振り返って見てみれば、父上も母上も、そして騎士団長も固まっていたらしく、安堵のため息をついている。
ふっと肩の力を抜いて、ベアトリス嬢は私に向き直った。
「殿下、ご無事ですか」
「ああ、大丈夫……」
ふと見ると、手首に近いところの袖が切られ、一筋の血の線ができていた。さきほど熱さを感じたが、切られていたのか。情けない。
私の視線を追ったベアトリス嬢は傷に気付くと、みるみる蒼白になる。
「お怪我をして……」
「あ、いや、大したことは」
「騎士服で長剣でしたら、完全に防げたものを……。不覚でございます!」
心底悔しそうな声を出して、拳を握って身体を震わせている。本当に腕に覚えがあるんだなあ、と妙に冷静に思った。
「かすり傷だから、気にしないで」
「でも……」
そうしてベアトリス嬢は、唇を噛みしめる。
ちょっとやそっとじゃ納得しそうにない。仕方ないので宥めるのはあとにしよう、と振り返る。
「さて、アグネス嬢。どうしてこんなことを?」
床に組み敷かれている令嬢に問う。周りの人間たちも、遠巻きに耳をすましているようだ。
アグネス嬢は、キッとこちらを見上げると、声を上げた。
「殿下がわたくしを弄んだからですわ!」
「……はい?」
「わたくしたちは愛し合っていたではありませんか!」
驚きすぎると、なにもできなくなる、というのを知った。ただ立ち尽くすだけで、否定の言葉もなにも出てこない。
「けれど殿下は、婚約を進めてしまわれた……。愛されたわたくしのほうが相応しいはずなのに! ならば最初から、愛してなど欲しくはなかった!」
そうして、わっと声を上げて泣き始める。
いったいなんの話なのか、わけがわからない。
しん、と静まり返っていた広間が、次第にざわざわとざわめいてくる。
「まあ……」
「殿下の火遊びが過ぎましたのね……」
「困ったこと……」
そんな声がチラホラと漏れ聞こえてくる。
そこでスピノザ侯爵が人垣をかき分けてやってきた。やはり彼も、固まってしまっていたのだろう。
娘の前にしゃがみ込むと、彼は青白い顔で叱責し始めた。
「アグネス、お前……なんてことを!」
「お父さま! だって、だって、わたくし……」
組み敷かれたまま、彼女はしくしくと泣き始める。
とんでもないことをしでかしたが、やはり娘は可愛いのか、彼は私のほうを振り返ると、わずかに非難めいた目をして口を開いた。
「フェルナンド殿下……。殿下はいつ、私の娘とそのような関係に……!」
周りの視線が痛い。
どう考えても、思いもよらないところに話が進んでいる。このままでは、ベアトリス嬢との婚約は解消、なんて話になってしまうのではないか。
冗談じゃない!
「待って待って待って待って!」
ようやく口が動いてくれた。
いつまでも呆然としている場合じゃなかった!
「いつ私が、君と愛し合ったってっ?」
「……先日の、舞踏会で」
愛し合ったという割に、ずいぶんと限定的だな。
同じく疑問に思ったのか、私の代わりに、スピノザ侯爵がアグネス嬢に問いかける。
「いやでもお前、あの舞踏会では私の側にずっといたではないか」
「ええ、でもわたくしにはわかりましたの」
この場に不釣り合いな、キラキラと輝く、涙ぐんだ瞳で私を見上げてくる。
「殿下はわたくしに助けを求めていらっしゃった。愛するわたくしとともに生きたいと仰ってくださいました!」
当然だが、まるで覚えがない。
軽蔑するような疑惑の目が、私に集中しているのを感じる。これはいけない。
私は両手を胸の前でブンブンと振りながら、強く主張した。冤罪だ!
「言ってない! ぜんっぜん言ってない! これっぽっちも言ってない!」
「いいえ、仰いました、目で」
「目で?」
「目で」
もうこれ以上驚くことなどないと思っていたが、驚いた。
完全なる、思い込み。怖すぎる。
さすがに周りも、私の火遊びがどうとかいう話ではないと理解し始めたようだった。
疑いは晴れたようだ。よかったよかった。
それと同時に、スピノザ侯爵の顔色は、これ以上ないくらいに白くなっていった。
「申し訳ありません!」
額を床に擦りつけんばかりに、頭を下げている。
「必ず、謝罪と弁償をいたします! ですので、どうか……!」
「……まあ、アグネス嬢をこのまま帰すわけにはいかないよ。拘束はさせてもらう。侯爵からは話を聞こう」
「かしこまりました……」
なにせ衆人環視の中での愚行だ。誤魔化しようがない。
とはいえ、屈指の有力貴族。あっさり爵位剝奪やらの罪を負わせてしまうと、国内は大混乱だ。
王族に刃を向けた罪は重いが、あとは父上たちに話をつけてもらおう。ディノ兄上のときも似たようなことがあったらしいし、上手いこと決着をつけてくれるだろう。
スピノザ侯爵とアグネス嬢が大広間から連れ出されたあと、しばらく残った貴族たちは顔を見合わせてヒソヒソと話し合っていたが、そのうち音楽が流れ始めると各々散っていき、まるでなにごともなかったかのように婚約発表会は再開された。さすがに二回目ともなると、慣れたものなのかもしれない。嫌な慣れだ。
しかし私は一回目。慣れていない。うつむいて立ちすくんでいる、私の婚約者にどう声を掛けていいのかもわからない。
だからといって、放っておけるわけがない。どうやら私が怪我を負ってしまったことを気に病んでいたようだし、なんとかしなければ。
私はベアトリス嬢の前に立つと、恐る恐る話しかける。
「ベアトリス嬢、あの……」
「申し訳ありません」
絞り出すように、謝罪してくる。ああ、やっぱり、自責の念に苛まれていた。
「気にしなくてもいい。そもそもベアトリス嬢は、護衛の任務についていたわけではないのだし」
ところが次に彼女の口から飛び出てきたのは、まったく違う話だった。
「殿下に想い人がいたとは露知らず……」
「はい?」
「わたくしが二人の仲を引き裂いてしまっていたとは」
「今の話、聞いてたっ?」
一番誤解を解いてほしい人が、まだ誤解していた!
私は思わず、ベアトリス嬢の両肩をガッシリと両手で掴むと、彼女をまっすぐに見つめて訴えた。
「アグネス嬢とは、まったく! なんにも! カケラも! 関係はないから!」
すると彼女は、小さく首を傾げた。
「なんにもないのに、あのような凶行に……?」
「そうみたいだね……」
がっくりと肩が落ちる。
もう本当に、いったいなにに巻き込まれたのか、わけがわからない。
「さっき、そういう話をしていたんだけれど、聞いていなかった?」
「すみません、少々、呆然としていまして……」
うん、呆然とする気持ちは、わからないでもない。
もう一度、さきほどの決着を説明しようかな、と考えて、はた、と思い当たる。
もしかして、私は彼女に、ちゃんと自分の気持ちを伝えていないのではないだろうか。
だから彼女は、目の前の出来事のほうを信じ込んでしまったのではないだろうか。
大広間に、いい感じに美しい音楽が響き渡っている。
周りの人たちは、今度はなんだ、と私たちを遠巻きに見守っている。
皆にも聞いてほしい。さきほどの騒ぎは、完全な誤解で。
私が想う人は、この美しい人なんだと。
私は彼女の前にゆっくりと跪く。そして見上げた。
「守ってくれてありがとう」
「えっ、殿下、あの……」
「でもこれからは、私に守らせてほしい」
「え」
彼女の瞳が、戸惑うように揺れている。
「愛しているよ。私の、白百合」
そして取った彼女の手に、唇を寄せる。
すると白百合の花は、ほんのりと紅色に染まったのだった。
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