第2話 様式がありません
「……ええと。本日は、どのようなご用件で」
窓口係の悲しい癖である。
「ご用件」
エルヴィラ様は扇をぱちんと閉じた。震えていた指先が、それで隠れる。
「苦情、かしら。三か月ぶんの」
「三か月」
「殿下は本をお読みにならない方でしょう。だから初版を探して、いちばん装丁のきれいな一冊を贈って、三章に栞を挟んでおいたの。誤植まで暗唱してくださるとは思わなかったけれど。二百十一ページの六行目ね」
ページも行も合っていた。作者が言うのだから間違いない。
(この人、殿下を仕込んだんだ。しかも相当なファンだ)
「防止局は人手不足で、小さな夜会までは手が回らないと聞いていたのに」
「……はい。ただ今夜は、その、予兆が三つ揃っていたもので」
「ええ。いいお仕事だったわ。本当に」
褒められているのに、背中が冷たい。
困ったときは条文に逃げる。窓口係の習性だ。
「あの、婚約の解消をご希望でしたら、第四条に従って正式に――」
「その届出には、両家の当主の連署が要るのよね。父が署名すると思う? 同盟の要の婚約を、娘の都合で」
思わない。ハーウェル公爵の評判は、私でも知っている。国王陛下の署名となれば、もっと望み薄だ。
「私から言い出せば、家への裏切り。殿下に捨てられれば、殿下の落ち度。慰謝料も、次の縁談までの猶予も、こちらのものになる」
彼女は口の端だけで笑った。
「あの本の通りに」
書いた。確かに書いた。捨てられた令嬢が、大勢の前で笑って出ていく話を。
「あの本を読むまで、出ていくのは悪いことだと思っていたの。生まれて初めて、違うかもしれないと思えたのよ」
それが、抜け道の地図として読まれていたなんて。
「あれは、物語で……」
(書いた本人が言うことじゃないな)
「ええ、物語よ。だから、物語の通りにしたの。ほかに通れる道がなかったから」
返す言葉がなくて、私は意味もなくペン立てを直した。
「ひとつ、伺ってもいい?」
「はい」
「様式第七号を拝見したわ。真実の愛には、八ページも用意があるのね。では、令嬢の側から出ていくための様式は、何号?」
頭の中で、局の様式集をめくる。第一号から第四十三号まで。婚約届、変更届、調停申立て、冷却室の利用申請、お茶請けの希望申告まである。
ない。どれにも、ない。
「……ございません」
「そう」
エルヴィラ様は驚かなかった。とっくに知っていた人の顔だった。
「二週間後、ローレンス侯爵家の夜会。私はまた殿下の隣に立つわ。窓口を開くのはあなたの自由よ。でも、もう一度私を止めるなら」
扇の縁をなぞる指は、最後まで震えていた。
「今度は、出口を持ってきてちょうだい。……本当は、二度とあんな場所に立ちたくなかったのに」
条文より、その一言のほうがずっと重かった。
ワルツの輪に紛れて、彼女はあっという間に見えなくなった。
* * *
翌朝。うちの局は、王宮の旧洗濯棟の二階にある。梁には洗濯紐の金具が残っていて、誰も外さない。
局長のヴァルター・ローエン、三十一歳、元判事。眉間のしわが常設で、笑ったところを見た局員はいない。
「殿下は、三杯目のお茶で我に返って、四杯目で泣いたそうだ」
「いつも通りですね」
「いつも通りだ。昨夜の展開は三秒。見事だった、第三」
「ありがとうございます」
「元凶の作者は、必ず見つけ出す」
局長の机の引き出しには、その元凶の本が三冊入っている。閲覧用、保存用、あと一冊の用途は怖くて聞けていない。
「見つけたら、まず握手だ。次に続きを書かせる。逮捕はそれからだ」
「逮捕、最後なんですね」
「当然だ。続きが読めなくなる」
真顔である。
「局長。令嬢の側から婚約を解消する様式は、なぜないんでしょうか」
局長の眉間に、しわが一本増えた。
「解消手続法は、破棄を宣言する側の暴走を止めるために作った。止める法だ。出る法ではない」
「では、出る法は」
「ない。……昨夜、誰かに訊かれたか」
「窓口で」
局長は私を三秒ほど見た。
「起案してみろ。予算はない。期限は」
「二週間で」
「なぜ二週間だ」
「……勘です」
「勘で期限を切るな。……受理する」
局長は机の下から木箱を引きずり出し、蓋を開けた。手紙だった。ぎっしり。
「版元から押収した、作者宛の読者の手紙だ。二千通ある。令嬢たちがあの本に何を見たのか、動機は全部ここに書いてある」
(私宛の手紙を、私の勤め先が押収している)
喉の奥で、変な音が鳴った。
「一番上は、二日前に回ってきたばかりだ。読め。私は三回読んだ」
局長は会議へ出ていった。
私は封筒を開けた。細くて几帳面な字だった。
『ヴィオラ・ノワゼット先生。先生の物語で、私は初めて、出口があるのだと知りました。けれどこの国では、その出口は、殿方に捨てていただかない限り通れません。先生、どうか続きを書いてください。捨てられずに、自分の足で出ていく方法を。出口の作り方を』
差出人の欄には、昨夜聞いたばかりの名前があった。
エルヴィラ・ハーウェル。
そう書いてあるのだった。




