第1話 窓口、開きます
「エルヴィラ・ハーウェル! 貴様との婚約を、今この場をもって破棄する!」
大広間の空気が、凍った。
楽団の演奏が止まる。
談笑していた貴族たちも、料理を運んでいた給仕まで、そろってこちらを振り返った。
舞踏会の中心。
第二王子アルベルト殿下が、婚約者であるエルヴィラ様を指差している。
そして私は、会場の隅に立ったまま、小さくため息をついた。
(はい。来た)
今夜で十四件目。
今月だけなら、もう数えるのも嫌になる。
「貴様は冷たい! まるで氷のような女だ!」
……そこまで聞いて、私は眉をひそめた。
(台詞が違う)
私の小説では、そこは「氷のような女」ではない。
正確には、もっと長い。
『氷の令嬢は、断罪の夜に微笑んだ』。
その中で、ヒロインの婚約者が言うのは、
『君はまるで、冬の湖のようだ』
――だったはずだ。
どうして現実の王子様が、微妙に間違った台詞を叫んでいるのか。
理由は簡単。
殿下が持っている本が、初版本だからだ。
初版には、誤植がひとつある。
作者である私しか知らない、どうでもいい誤植が。
なのに。
(よりによって、そこを使うんだ……)
私は額を押さえた。
観葉植物の陰に隠れて、もう二時間。
パンプスの中では足の指が限界を迎えている。
けれど、ここで気を抜くわけにはいかない。
なにしろ私は、婚約破棄防止局の第三窓口係なのだから。
「よって今宵、この場をもって、貴様との婚約を――」
「はい、そこまでです」
私は手を上げた。
王子の言葉が止まる。
「……誰だ?」
「婚約破棄防止局、第三窓口のコレット・アーベルです」
後ろを振り返る。
「お願いします」
「はい!」
新人局員が二人、慌てて木箱を抱えて走ってきた。
床に置く。
蓋を開ける。
折り畳まれていた板を広げる。
脚を伸ばす。
最後に看板を立てれば――
「窓口、開きます!」
観葉植物の陰から、簡易窓口が完成した。
三秒。
我ながら、かなり手際がよくなったと思う。
大広間の真ん中。
王子と令嬢の間に、堂々と行政窓口ができていた。
「……また防止局だ」
「今夜は第二王子殿下か」
「十四件目だそうだぞ」
周囲から、ひそひそ声が聞こえる。
私は椅子に腰掛け、受付印を机の上に置いた。
「では、アルベルト殿下。婚約破棄のお届けについて確認いたします」
「届出だと?」
「はい」
「私は王子だぞ!」
「存じております」
私は笑顔で頷いた。
「だからこそ、正式な手続きが必要です」
「真実の愛に、書類など必要ない!」
「真実の愛でしたら、様式第七号をご利用ください」
「……第七号?」
「はい。『真実の愛による婚約解消申請書』です」
引き出しから、分厚い紙束を取り出した。
どん。
机の上に置く。
「全八ページあります」
「八ページ……」
殿下の隣にいた令嬢が、小さく呟いた。
「必要事項はこちら。出会った日時、場所、互いの身分、婚約に至った経緯。それから――」
私は一枚目をめくった。
「『婚約破棄後の両家の経済的損失について、具体的に記載せよ』」
「……」
「二枚目には、両家の親族への説明責任について」
「……」
「三枚目には、外交上の影響について」
「待て!」
殿下が机を叩いた。
「なぜ婚約を破棄するだけで、そこまで書かねばならん!」
「去年、隣国との同盟話が一件吹き飛びましたので」
「……」
「そのときも『真実の愛だから』という理由でした」
殿下が黙った。
私は受付印を持ち上げる。
「なお、婚約破棄の宣言だけでは法的効力は発生しません」
「なんだと?」
「三十日前までの届出。証人三名の署名。両家への通知。そして王家婚姻管理院の承認が必要です」
「そんなもの、聞いていない!」
「聞いていない方が、最近多いんです」
私はにっこり笑った。
「ですから、私たちが来ています」
殿下の顔が赤くなった。
「無礼な!」
「ありがとうございます」
「褒めていない!」
「では、こちらへどうぞ」
私は受付札を一枚差し出した。
「十四番です」
「何の番号だ!」
「本日の婚約破棄相談受付番号です」
「私は相談しに来たのではない!」
「皆様、最初はそうおっしゃいます」
背後から衛兵が近づいてきた。
殿下が一歩下がる。
「な、何をする!」
「冷却室へご案内します」
「私は正気だ!」
「皆様、最初はそうおっしゃいます」
「二度言うな!」
殿下はそのまま衛兵に連れていかれた。
広間に、静けさが戻る。
やがて楽団が、おそるおそる演奏を再開した。
私は受付印を置いた。
「……本日も無事終了」
これで十四件。
去年の春に婚約破棄防止局ができてから、婚約破棄の数は減るどころか、むしろ増えている。
原因は明白だった。
一冊の本。
『氷の令嬢は、断罪の夜に微笑んだ』
婚約者に裏切られた令嬢が、大勢の前で婚約破棄を告げられる。
それでも彼女は泣かない。
怒らない。
ただ微笑んで、
『承知いたしました』
そう言って、舞踏会を去る。
そして最後には、自分を捨てた男よりずっと幸せになる。
ありがちな恋愛小説。
私は、ただ。
誰かに捨てられた女の子が、最後には自分の足で立てる話を書きたかった。
それだけだった。
なのに。
「現実で真似する人が出るなんて……」
私は机に頬杖をついた。
しかも、書いた本人が、それを止める側にいる。
笑えない。
ちなみに、私の正体を知る者は、この王国には一人もいない。
覆面作家。
ヴィオラ・ノワゼット。
それが私だ。
「コレットさん」
声をかけられて振り返る。
新人局員の一人が、困った顔をしていた。
「さっきの令嬢なんですが……」
「エルヴィラ様?」
「はい」
見ると、エルヴィラ・ハーウェル侯爵令嬢が、まだそこに立っていた。
顔は真っ青。
けれど、背筋だけはまっすぐ伸びている。
私は椅子から立ち上がった。
「ハーウェル様。お怪我はありませんか?」
「……ありません」
「でしたら、今日はもうお帰りください。殿下との件は、こちらで処理します」
エルヴィラ様は答えなかった。
ただ、私の机の上にあるものを見つめていた。
受付札。
様式第七号。
そして――
机の端に置いていた、一冊の本。
見覚えのある青い表紙。
『氷の令嬢は、断罪の夜に微笑んだ』
エルヴィラ様の瞳が、それに釘付けになる。
「……それ」
「ああ、これですか?」
私は何気なく本を手に取った。
「最近、窓口でよく持ち込まれるんです。婚約破棄の参考にしたとか、されなかったとか」
「……」
「読まれましたか?」
エルヴィラ様の唇が、わずかに震えた。
「はい」
「そうですか」
「何度も」
その声は、ひどく小さかった。
「何度も……読みました」
私は笑顔を消した。
「……どうして?」
エルヴィラ様はしばらく黙っていた。
そして、私をまっすぐ見た。
「今夜、あの人が私を捨てると知っていたからです」
胸の奥が、ざわついた。
「……え?」
「だから、ずっと待っていました」
エルヴィラ様は震える手で、ドレスの胸元を押さえた。
「この本に書かれているように、私も最後には笑って、ここを出ていこうと思っていたんです」
「……」
「それだけが、私の逃げ道でした」
私は何も言えなかった。
あの本を書いたとき、そんな読み方をされるなんて考えもしなかった。
ただの物語だと思っていた。
誰かが少しだけ勇気を持てるような、そんな話を書いたつもりだった。
けれど。
「なのに……」
エルヴィラ様が俯く。
「どうして、止めたんですか?」
その問いに、私は答えられなかった。
法令なら言える。
手続きなら言える。
様式第七号の説明だってできる。
でも、この人が何から逃げようとしていたのか。
それだけは、まだ知らなかった。
そして私は、このとき初めて気づいた。
婚約破棄を止めることと。
婚約破棄をしたい人を救うことは。
たぶん、同じじゃない。
「……コレットさん」
「はい」
「私、あの本の続きを知っています」
エルヴィラ様が顔を上げた。
「でも、私の人生には……続きを書いてくれる人がいません」
その言葉が、胸に刺さった。
私は知らなかった。
私の小説を、誰かが「出口」として読んでいたことを。
そして。
その出口を閉じたのが、他でもない私自身だったことを。




