第3話 三杯目のお茶
第十一条を見つけたのは、その夜の二時だった。
うちの局の人間は、第四条と第七条しか読まない。私もそうだった。婚約解消手続法は全六十二条で、窓口の引き出しに三部ある。そのうち一部を、生まれて初めて頭から読んでみたのだ。冷めたお茶と、ペン立てと一緒に。
第十条。冷却室に入りたる者は、茶を三杯供されるまで、いかなる書面にも署名することを得ず。
第十一条。冷却室における調停で、当事者双方が解消に合意し、調停官がこれを認めたときは、調停調書をもって第四条の届出に代える。
二回読んだ。三回読んだ。連署が、ない。
(冷却室って、待合室じゃなくて、出口だったの?)
一年も人を連れていっておきながら、その先が何なのか、考えたこともなかった。
三日後の午後、殿下の事後面談があった。
宣言者には全員、冷却室で窓口係と一対一の面談を受ける義務がある。通された殿下は、私の顔を見るなり言った。
「ああ、あの窓口の」
「第三窓口のコレットです」
お茶が運ばれてくる。冷却室のお茶は、熱い。わざとだ。冷めるまで飲めないから、そのあいだ人は話すしかない。誰が考えたのか知らないけれど、あれは良い制度だと思う。
殿下は猫舌だった。カップに息を吹きかけながら、ぼそりと言う。
「あの本、君も読んだのか」
「……少しは」
「三章の台詞は、全部覚えた。エルヴィラが栞を挟んでくれたから。私は本を読まないが、彼女の字で『ここだけでも』と書いてあって」
メモまで付けていたのか、あの人は。
二杯目が出る。
「分かっていたんだ」
湯気の向こうで、殿下は言った。
「エルヴィラが私にあの本を渡した理由くらい、そこまで馬鹿ではない。彼女は出たがっていた。私にも、ミミがいる。利害は一致していた」
「では、おふたりで示し合わせて」
「示し合わせてはいない。どちらも、言い出せなかっただけだ。ただ、台本があった」
台本。私が書いた、あの。
三杯目が出る。殿下はやっと一口すすって、カップを置いた。
「止めてもらって、助かった」
「助かった?」
「あの台詞を言っている途中で、気づいたんだ。エルヴィラが、笑う準備をしている顔をしていた。『承知いたしました』と言うために、背筋を伸ばして」
殿下は、自分の手を見た。
「そんな顔をさせて、何が真実の愛だ。第七号は、いずれ書く。八ページ、ちゃんと」
三杯目は終わった。第十条は、満たされた。
「殿下。もし、おふたりで合意して、堂々と出られる道があるとしたら」
「あるのか」
「……あります。たぶん」
殿下の目が、初めてまっすぐ私を見た。
「エルヴィラに伝えてくれ。ありがとうと、ごめんを、同じ数だけ言いたい」
面談を終えて廊下に出ると、局長が壁にもたれて立っていた。
「第十一条か」
「……いつから」
「二杯目からだ」
盗み聞きである。
「書いたのは私だ。去年の春、止める法を作れと言われた。止めるだけの法は、檻だ。だから戸を一枚、隠した」
「前に『出る法はない』と」
「言った。君が読むか、試した」
「試さないでください」
「夜の二時まで残った者に、残業代は出ない」
「知ってます」
局長の眉間のしわが、ほんの少しゆるんだ気がした。
「遅い。一年かかった。……だが、見つけたのは君が最初だ」
それから、声を落とす。
「ただし、調停には両家の当主の出席が要る。署名は要らん。座るだけでいい」
「ハーウェル公爵は」
「うちの召喚状を、三度、封も切らずに突き返してきた」
期限まで、あと九日。
熱いお茶で釣れる相手では、たぶん、ない。




