反撃・3
車の中では世間話だけしちょりました。私はゲンさんが疲れるのやないかと気にしちょったのですが、その日のゲンさんは何年も見たことがなかったくらい元気で、生き生きとしちょられました。私の心配なんかまるで無意味に思えました。
『そういや吉っちゃん。昔、わしの名前を変やと笑うたなあ。次男で現太はおかしいと』
『はあ、そんなこと申しましたかねえ』
恩人をつかまえて失礼な話ですが、若い時分の私ならそのくらいのことは言うたかもしれん。そう思って苦笑しました。
『けど、これから行く本家を継いだわしの兄貴はもっと変わった名前やったよ。もう亡くなっちょるが。空矢というたんや。お空の空に弓矢の矢ぁで、くうや』
『坊さんみたいですな』
今時は、名前に空という字を使うのが流行りらしいですな。私の家の隣りに住んじょったひとも、孫の名前がそらくんやと言っちょった。お空の空で、空くん。
けど、私らの年代だとちょっと奇抜な気がします。『空』は『から』と読めるよって、名前につけるのは避けられていたんやないでしょうか。わざわざそんな字を使うのは坊さんだけ思っちょりましたですな、私は。
『そういうしきたりだったんや。跡取りには出来るだけ空っぽに聞こえる名をつける。目ぇをつけられんようにな。下の子は逆で、目立つ名をつけるんや。そうして目を引いてから、外に出す。ずーーっとそうしてきたんやて。わしの実家いうんは、そういう家やったんよ』
妹の名は華子やったと付け加えて、ゲンさんはしばらく黙りこみました。さすがに疲れたかと思うて、私もそのままにしちょきました。
自動車道路を下りてからは、ゲンさんはあっち行けこっち行けと運転手に指示をしちょりました。
八十を越えてからは運転をしなくなりましたが、元はどこへでも自分で車を運転していくひとでしたけん。目の見えん私も、おかげであちこち連れて行ってもらったものでした。
坂を上ったり下りたり、また上ったりして、やがてタクシーのスピードがゆるまりました。
『おじいちゃん。ここ、ニュースで騒いじょる連続殺人事件があった場所やないですか』
運転手が言いました。
『ああ。殺されたのはわしの甥と、その子どもたちじゃけんな』
そう認めてからゲンさんは、
『怖くないけん、大丈夫や。事件があっても住んじょる人間はいる。誰が死んでも、残った人間はメシを食ってクソして生きていくけんな』
冗談みたいなことをとてもまじめに言いました。
『はあ』
運転手は困ったような声で、わかったようなわからんような返事をしたと思います。それに更に指示をして、ゲンさんはもう少し車を奥まで進めさせました。
『ここでいいんですか。お宮やないですか』
そう言う声が聞こえました。
『墓参りやなかったんですか』
『ええんや。車では入れんけん、ここまでで。料金や、おまけはあんたが取っとけ』
『いやいやいや』
運転手が仰天した声をあげました。
『おじいちゃん、こげんにはもらえんよ。帰りのぶんまで十分あるやないですか。……私、車を停めて待っちょりますけん、帰りも乗って行きなさい。料金はもうもらったけん。どうせ私も帰らんといけんのやし』
『ありがとさん。でも大丈夫や、帰りの足はもう手配してあるけん』
ゲンさんはそう、優しい声で言いいました。
『あんたはもう帰んなさい。目ぇつけられんうちにな』
私はゲンさんに手を取ってもらって車を降りました。辺りはしんとしていて、たまに鳥の声が聞こえました。運転手は病院まで送っていくと何度も言っていましたが、最後はゲンさんに追い返されました。タクシーが行ってしまうと、余計に静かになりました。
『山の奥ですな。静かや』
と言うと、
『ああ』
ゲンさんが答えました。
『坂を下りたらまだ住んじょるひともおるんやけどな。郷のもんはこっちにはそうそう上って来んけん、静かやろ』
それから、
『ちっとこっちへおいでや。大丈夫、平らやけん、わしの声についておいで』
と言わさっしゃった。
私はゲンさんの言うとおり、ついていきました。車から降りた場所はアスファルトで舗装されているのが感じられましたが、すぐに足元は平らな土になりました。少し湿って、やわらかな土でした。
『お宮や言うちょりましたな。お参りですか』
『違う違う。ここはガワだけやけん、建物にご利益はない。けどな、ああ……、こげんなってしまって。それでもちょっとは力を貸してくれるかもしれん。吉っちゃん、触っときなさい』
ゲンさんにそう言われて触ったのは、ざらざらとした固い木の肌でした。
『こりゃ木の幹……? ですか?』
『ああ。秋に大きな台風が来たやろう。あのときに雷が落ちたんやて。実際に目にすると無惨なもんやなあ。これはご神木なんや。ずっと実家とこの郷を守ってくださっとったのよ。こげんなっても、まだ生きてらっしゃるけん、吉っちゃん、よう触っておきんしゃい。守ってもらえるように』
ゲンさんの声は真剣だったので、私も言うとおりにしました。
触れちょった木が、弱々しいけれども生きちょるというのは何とのう感じ取れました。目ぇが見えんと気配には敏感になります。木ぃやなんかも、生きちょれば気配がある。なんやこう、生きちょるぞー、て声を上げちょる、そんな感じがしませんか。
『吉っちゃん。この事件はな、戦争で言えばいきなり主力を叩かれたようなもんなんや』
ゲンさんの声は固かったです。
『今は、残った部隊を各個撃破されちょるのや。負けはくつがえせん。撤退するしかない。けど、全滅は避けたいとわしは思っちょる。残った一族の命は助けたい。郷のもんにも義理があるけん、無事にここから出したいのや。危険かもしれんが、手伝ってくれ』
正直、何を言われちょるのかやっぱりわからんかったです。けど、
『言いましたやろ。私はゲンさんのためなら命はいらんけん』
気持ちは決まっちょりました。
ゲンさんは低く笑いました。
『吉っちゃんはつける目ぇがないけん、大丈夫やと思うが。ああ、念のため義眼は外しておきんしゃい』
『ええけど。ここでかい』
『どうせ誰もおらん』
意味はわからんでしたけど、毒を食わば皿までです。どうせ、目ぇに穴が空いちょると気味悪がられるけん着けとるだけのもんです。ゲンさんがはずせと言うならはずすのに異存はありません。普段はそんなやりかたはせんのやけど、指をつっこんで、こう、な。ちょっと乱暴なやりかたやけん、そんなんしたと言うたら医者に怒られますけど。
『ゲンさん。近くに誰かおらんか』
『誰もおらんがな。郷のもんはここには来ないのや』
『けど』
私は気配を探ろうと首を回しました。
『誰かが息を飲む音が聞こえた気がしたんやが』
『そんなもん、聞こえたりせんやろ。吉っちゃんも緊張してしまったかいねえ。気休めやが、これをかぶりなさい』
頭に何か載せられました。
『ゲンさん。なんやこれ』
『かごや。これも首からかけとけ』
『魚くさいな?』
『めざしやからな』
『からかっちょるんですか』
『真面目や』
そげなこと言われても、目のないじじいが頭にかごを乗せて、首にめざしかけて歩いちょったら気味が悪いなんてもんじゃないですやろ。新手の妖怪ですわ。
ゲンさんがあげに真剣やなかったら、いいかげんにせいと言うところです。
『じゃ、そろそろ行こか。吉っちゃん、PHS は持っちょるね』
『ああ。あるよ』
じじいが若ぶっちょると思われるかもしれんですが、こげな体ですと便利ですけん、当時から使っちょりました。ゲンさんの家と携帯電話、かかりつけの病院と役所の福祉課、後は福祉サービスをやっちょった社団法人の番号を登録して、何ぞあったら連絡出来るようにしてあったです。
『勝手なことしてすまんが、新しい番号を登録しておいた。実家が昔から懇意にしちょる病院や。これからやることで、もしわしに何かがあったらそこに連絡しなさい。垂郷の、宮の正面の坂の上、言うたらわかるけん』
そういえばタクシーの中で、『ちょっと見せて』と言われたけん、ゲンさんにPHS を渡したのでした。年をとっても新しいことを覚えるのを面倒がらんお人で、自分でもPHS を持っておりました。というより、私のほうがゲンさんに勧められて持ち始めたのです。
けど、そげなことを言われて、私はまた不安になりました。
『ゲンさん……』
『大丈夫や。何があるかわからんけん、甥が生前にアンテナを立てておいたんや。山奥やけど、ちゃんと通じるけん』
私が言いたかったのはそげなことやなかったのですが、
『さ、暗くなったらいかんけん、さっさと済ませてしまお。ちょっと道が悪いけん、わしの肩に手を置いて、ゆっくりついておいでな』
ゲンさんは聞く気はないようでした。
そうして、私らはあの場所へ向かったのです。




