反撃・2
翌日、ゲンさんに言われたとおりにまた見舞いに行きました。そして車椅子にゲンさんを乗せて散歩に出ました。
と言うても、私は目が見えませんけん、ただ押すだけです。あっち行け、こっち行け、止まれ、進めなんてのは全部ゲンさんの指示です。ゲンさんが運転する車の、私はエンジンみたいなもんですわ。
何度も来て病院の中を歩き回ったからなんとかなったようなものです。知らん場所やったら、とてもとてもそげなことは出来んだったでしょう。
病棟を出てエレベーターに乗って一階まで下りました。そこでゲンさんは、
『左や。左へ行ってくれ』
と言いました。
中庭の散歩なら逆です。左に行くと外へ出てしまう。
『お散歩なの? 中庭は向こうよ』
知らん女のひとの声がしました。看護婦さんやったんでしょう。
『いっつもいっつも同じ中庭じゃ飽きるけん、今日は前庭に行くんや』
ゲンさんが朗らかに答えました。
『そうなの? 担当の先生はいいって言った?』
『ひとまわりするだけならいいよ、やって。ケチなこと言っちょらんで、もうちょっと許してくれ言うたんやけど、前庭は風が冷たくて体を冷やすけん、ちょっとだけやって』
まあ、すらすらとなあ。聞いてきたように言うんで呆れました。無論、許可なんか取っちょりませんでしたからね。いつもどおり中庭に出ると言うて出てきたんです。
そいでも看護婦さんは一応、納得してくれて、
『じゃ、ちょっとだけにして、すぐに戻ってね』
と言って離れて行きました。
『前庭を散歩する患者も、門を出て外の散歩に行く患者もおるけんね。わしの寝台は窓際やけん、ちゃんと見とるんや』
ゲンさんが小声で得意そうに言いましたけん、
『けど前庭は風が冷たいなんて、よくもまあ知ったようにおっしゃるなあ』
と私も言うたら、
『吉っちゃんがいつも言うんやないかい。風が吹くけん腹が冷えて、便所が近くなってかなわんて』
いたずらする子供みたいな顔で言いますけん、笑ってしまいました。このおひとにはかなわんなあ、と思ったです。
『吉っちゃん、このまままっすぐ進んでくれ。堂々とな』
そう言われて私にもわかりました。ゲンさんは病院を脱走するつもりやったんです。
『ゆっくりでいい。いつもの散歩や。ちょっと遠出するだけや』
その楽しそうな声を聞くと私も少し緊張がゆるんだです。私はゲンさんを落っことさんよう、慎重に進みました。
病院の見取り図は頭に入っちょったとはいえ、車椅子を押して前庭を歩くのは初めてです。ひとりなら、私が白い杖を持って歩くとみんな避けてくれますが、曲がりなりにも介護者役となったらそうはいかんです。何かヘマをせんかと冷や汗が出る思いでした。
ゲンさんが、ああせい、こうせいと的確な指示をしてごすけん、何とか進めました。いつもの中庭の散歩だってそうやったのですから、『いつもと同じや』というゲンさんの言葉どおりではあったのですが。
『よし。吉っちゃん、車椅子から下りるぞ』
しばらく歩いたところで、ゲンさんがそう言って立ち上がろうとする気配がしました。
『大丈夫か、ゲンさん』
『大丈夫や。いつも便所まで自分で行っちょる。車椅子やら大げさなんや。歩けなくなるけん、やめさせてくれと言うとるんやが、念のためと言うのよなあ。……ほら、幸先がええ。すぐタクシーに乗れる』
排気ガスのにおいとエンジン音で、タクシー乗り場の近くにいることは私にもわかりました。
車椅子を降りたゲンさんは私の手をにぎって、
『こっちや』
とタクシーに乗せてくれました。
そして運転手に、**市に行くように言いました。
『**? 一時間以上かかるよ、おじいちゃん』
運転手がびっくりして声をあげました。
『自動車道に乗るんや。**インターで下りて、県道**で山ぁ越えたらすぐや。金ならある、さっさと行かんかい』
何年も聞かなかった、しっかりした声でゲンさんが言うと、運転手も従いました。
車が走り始めると、ゲンさんは分厚い札束を私に触らせてくれました。
『あんた、これ、どうしたんや』
私はびっくりして聞きました。
『亜希子に引き出して来させたんや。吉っちゃんが金に困っちょって、このままやと見舞いに来られんようになるけん、貸してやるんやって言うた』
得意げに言うんです。
亜希子さんというのは、ゲンさんのお孫さんです。息子さん夫婦はその何年か前に相次いで亡くなられまして。一緒に住んじょった亜希子さんが、近くの会社に勤めながらゲンさんの面倒を看ちょられました。
『なんちゅうことを言いなさるんや。私が亜希子さんに怒られるやないですか』
憤慨して言うたら、
『亜希子もそこまでせんでも、言うちょったがな。吉っちゃんに会えなくなったらわしが退屈で死んでしまう言うてゴネた』
などとおっしゃる。
『ひどいじじいやなあ』
また呆れて言うと、
『わしの金やけん、どげなことに使おうが自由や』
と来なさる。手に負えん年寄りですわ、まったく。
『それより吉っちゃん。靴、持ってきてくれたか』
言われて、私はあわてて手に握ったままだった紙袋を差し出しました。私の古靴を入れたその袋に、病室でゲンさんが何かを入れたので、袋は少し重くなっていました。
『ありがとうな。裸足じゃどこにも行けんけん』
ゲンさんが病院のスリッパを脱いで靴をはき始めると、
『おじいちゃん。病院を抜け出してきたんじゃないやろね』
運転手が心配そうに聞きました。
『面倒は困るよ』
『なに、墓参りをするだけや』
ゲンさんは何でもない調子で言いました。
『孫が仕事が忙しい言うて、外出の許可を取ってくれんけん、自分で行くんや。医者は大丈夫や言うちょる、ただ身内の付き添いがないと許可できんて、頭が固いことを言うんや』
『でもなあ。やっぱり病院に帰りましょ、ちゃんとお孫さんに連れてきてもらいなさいよ』
運転手がUターンしようとしたのやろか、ゲンさんの声が厳しくなった。
『あんた、戻ったらわしゃあ金を払わんぞ。それだけやない、あんたに無理やり車に乗せられたて騒ぐぞ。誘拐や、強盗やと言うぞ』
『そんな無茶苦茶な』
運転手が驚いた声を上げました。そりゃそうです。ゲンさんはさらに続けて言いました。
『老い先短いけん、無茶ぁ言うんや。ここで戻って、もし墓参りできんうちに死ぬことになったら、わしゃ化けてでるぞ。小川いうんやな、名前を覚えたけん、きっと化けて出るからな』
ほんに無茶苦茶です。そんな脅迫する年寄り、聞いたことないですわ。
運転手も話にならんと思うたのか、
『わかりましたよ。行きますけん、誘拐犯呼ばわりは勘弁してください』
諦めたようにそう言った。
『ゲンさん』
いくら何でも強硬すぎんか。そう口にする前に、
『吉っちゃん。一刻を争うんや。今日のところはわしのわがままを聞いてくれ』
真面目に言われてしまって、言い返せなくなってしまいました。




