手記・3
(四度坂顯二氏の手記・続き)
なかなか役に立ちそうなものが見つからない。古文書の類いは山ほどあるが、読んでいる時間がない。兄の筆跡で記されたノートは何冊か見つかった。だがどれも記述が断片的で意味が取れない。
『塚の下』
『八百年前』
『神木』
『根の中の髑髏』
『かご』
『めざし』
そんな言葉は出てくるが、それをどうするという肝心なことが書かれていない。それでは意味がない。そんな断片なら私だって既に知っているのだ。
もしや、あえてわからないように書いているのかと気付く。ここで暮らした若いころ、父が繰り返し口にしていた。『塚の下のものについてはあからさまに語ってはならない』と。
語れば聞き耳を立てられる。こちらの手の内を読まれる。だから語らぬ。『ちゃんとせんといけん』という言葉で、表情で、かすかな抑揚で、親から子へと秘事を伝えてきた。
だがそうだとしたら、方策は兄の頭の中にしか存在しなかったことになってしまう。清明ならば何か聞いていたことがあったかもしれないが、それも今さらだ。二人の頭の中にあったことは目玉といっしょにほじくり出されて踏み潰されて消えてしまった。
私たちは後手後手に回っている。本当はあのとき、木が倒れたときにこうなることを予想して動き出さなくてはならなかった。
襲いかかられる前に手を打たねばならなかった。それを、あんなに言ったのに兄貴が。
いいや。わかっている。兄を止められなかった、止めなかった自分の責任でもある。気軽に『何とかしろ』と言えたのは、家を出された身の無責任さからだ。息子や孫に、重荷を背負わす必要がなかったからだ。
だから兄に、清明に、根拠のない恐れを説けた。そして根拠がないからこそ、兄の『平成にもなって』という言葉に屈した。
自分だって本心ではそう思っていたのではないか、今どきそんな迷信に生きている家などないと。百年このかた何も起こってはいなかった、ばあさんの事故の他は。伝えられている全てはただの迷信で、伝えていこうとする全ては因習に過ぎないのではないかと、私だって考えていたのではないか?
なのに今になって、こんな形で……。
日暮れ前に警官が訪ねて来た。私がここに移ることを伝えたから、日に一度パトロールに来ることになったそうだ。
若い巡査は面倒くさそうに、
『犯人が捕まるまではご自宅におっていただきたかったんですがねえ』
と言った。
パトカーで三十分かけて来なければならんのだ、面倒をかけているのは知っている。だがこちらも切羽詰まっているのだ。兄の事業や遺品に至急で整理しなくてはならないことがあると伝えた。嘘ではない。
揚羽の様子を聞かれた。京都で治療を受けていると答えた。そのときは深く考えなかったが、警官が帰ってから気が付いた。もしかして警察は、揚羽を疑っているのだろうか?
考え始めるとどんどん疑いがふくらんだ。揚羽なら兄夫婦を殺そうと思えば簡単だったろう。何しろ実の娘なのだ。これからのことで相談があると言えば、清明の家にもたやすく入れただろう。
揚羽の家の事件だって、亭主は死んだが揚羽と赤ん坊は生きているんだ。
ケガなんぞ、亭主を殺そうとした時に反撃されたのかもしれん。灰色の服を着た得体の知れん女なんぞより、そちらのほうがずっとありそうではないか。
揚羽を京都にやったのは、この場所から遠ざけたかったからだ。
だが、もし全てが揚羽のしわざだったとしたら? 私の知らない、親子や兄弟の間の確執が原因だったとしたら?
それはそれで嫌な話だ。救われない話だ。だが、もしそうなら……。神木も、落雷も、塚ノ宮も関係なくて、全てはよくある親族間のトラブルだったなら……。
いてもたってもいられなくなって京都に電話した。電話対応してもらえる時間が過ぎてしまっており、留守番電話になってしまう。
落ち着けと自分に言い聞かせた。何かあれば、施設のほうで私に連絡をしてくるはずだ。こちらに移ることも昼間のうちに伝えてある。連絡がないということは、揚羽はおとなしくそこで療養しているということだ。
落ち着かない気持ちのまま、ついでに親族に連絡を取ってみることにした。
**の叔父は数年前から病院と介護施設を行ったり来たりしている状態だ。大丈夫だとは思ったが、念のためいとこの娘に電話をした。特に変わりはないとのこと。ただ、叔父は事件のことを気にして新しいニュースがないかしきりに聞きたがるらしい。
揚羽の亭主の実家は、赤ん坊が元気に機嫌よくしているということは教えてくれた。息子が殺されたのはうちのトラブルに巻き込まれてのことだと考えているようなので、冷ややかな態度ではあったが。
関東のいとことだけ連絡が取れない。兄が殺されてから何度も連絡しているのだが、留守番電話になるばかりだ。
最後に会ったのは叔母の一周忌だから十五年以上前になる。だが折々の挨拶は互いに続けていた。祖父の法要の相談をしたときにも、すぐ連絡がつけられた。こんな風に音信が絶えることはなかったのだが。
関東は遠い。あんな遠くまで目が届くとは思えないが、やはり心配だ。だがあちらには他に知り合いもいない。連絡を待つしかないのか。
『***の顕二です。トコちゃん、心配しちょるけん、連絡ください』
何度も入れたのと同じようなメッセージを、また入れた。
電話を切って、苦笑する。こんなじじいが『トコちゃん』などと言うのもおかしなものだ。向こうだっていい年なのだ。子供のころの呼び名は気恥ずかしいに違いない。
だが、いとこと親しく過ごしたのは、もう半世紀も前の、私たちが小学生だった時代の夏休みの二週間だけだ。だから、いとこは私たちにとっていつまでもあのころの『トコちゃん』のままだった。
徳子と呼び捨てにするほど親しくないし、さりとて徳子さんと呼んでしまうと他人行儀に過ぎる。結局、子供のころのままにトコちゃんと呼ぶのが一番しっくりとくる。
ろくに会ったことのない親戚との距離の取りかたは難しいものだ。
もっと近くに住んでいれば、交流も多かったのだろう。そうしたらきっと、この年になってトコちゃんなどと呼ぶこともなかっただろう。
彼女について思い出せるのは、やはり小学生のときの姿だ。東京から来たいとこは、ここらの女の子らとは違うあか抜けた感じで、兄も私も気後れしてしまって何を話したら良いのかわからなかった。あげく、仲良くなろうと思って山でとったカブトムシを手に乗せてやったら、彼女は怯えて大泣きしてしまった。
ろくな思い出ではないが、叔母の葬式で会った、子供を連れた疲れた顔の女は知らない人間のように思えてならない。
私にとっての『東京のいとこ』は、小学生のトコちゃんのままだ。
***の農協の隣のコンビニで買ってきたカップ麺を作って食べた。
面倒だが、明後日くらいにはまた車を出して買い出しに行かねばならないだろう。そのころまでには、調べものに目処がついていると良いのだが。
夜、眠る前に妻に電話をした。なかなか会えないアメリカの孫たちと会えて機嫌が良かった。
『何だか英語がわかるようになってきた気がするわ。帰ったらあんたさんと話が通じんようになっちょるかもしれんよ』
などと言う。なんがなんが、日本語も訛っちょるのに英語なんど話せるようになるもんがか。
長男も長男の嫁も変わりなし。
皆がこうして元気でいるうちに事態を解決せねば、と改めて思う。
(手記はここで途切れている)




