断片・トコちゃん
垂郷はねえ、地元のもんは行かんかったですわ。
何もない、っていうのもありますけど。だけん、それでも普通は寄り合いだの商いだの、交流はあるもんやないですか。
この近在では、垂郷には関わらんほうがええっていう考えが昔からあったんです。
あっちのひとらも、こちらに関わろうとはせんかったです。農協もね、この近くの農協と違うんです。もちょっと下のほうの、*****の農協に入っとりましたの、あそこだけ。
私らも子供の頃から言われたもんです。
垂郷のもんとは口きくな、垂郷には絶対に行っちゃいかんて。そりゃもう、口うるさく。特に年寄りはそういう考えでしたねえ。戦前はお祭りにも立ち入り禁止だったと聞きましたけん。あそこのひとら。氏子なのに、おかしな話ですわ。
たたられる、言うんです。
あそこはタリゴウやなくてタタリゴウやけん、関わっちゃいけん言うんです。
あほみたいな話です。
まあ、若いひとらが見たら今の私も小汚ない婆さんですけど。これでも戦後生まれですもん。科学の子ですもん。そげな迷信はあほらしいなあと思ってたですよ。
そいでも子供でしたけん、大人のいうことには逆らえませんし。
別に垂郷に行く用事もないですけん、普通に暮らしとりました。
小学校四年生くらいのときでしたかね。夏休みのことだったです。
学校は、隣の地区に四十分かけて歩いていってましたんですけど。
家のまわりに、年の近い女の子がおらんかったのです。男の子ばっかりでね、近所は。
小学校に行けば女の子の友達もおりましたし、小さいころは男だ女だ気にせんで遊びまわっちょりましたけど、高学年になるとだんだん、男に混じって遊ぶのが嫌になってくるものやないですか。
かといって毎日遊びに行くには遠いんです、女友達の家は。だけん、ひとりでいることが多かったんですよ。その年は。そんなころにトコちゃんに会ったんです。
近在の子じゃなかったです。
よそいきのきれいな服を着ていて、子供心にもあか抜けて見えました。
東京の近くから、親戚の家に遊びに来てると言うてました。近くに遊び友達がおらんけん、出てきたと。
その言葉遣いがまた、この辺のもんとは違うんです。テレビやラジオでしか聞かん東京弁でしたけんね、もう本当にカッコ良くて。
すぐに仲良くなって、毎日遊ぶようになりました。他のひとに見られん場所で、いつも二人で。
トコちゃんも私も、知らん子と勝手に遊んどるって知られたら怒られるかもって心配しちょったんです。
それでもトコちゃんと遊ぶのは楽しかったです。トコちゃんもそう思ってくれたですかねえ。毎日、約束の場所に歩いて来てくれましたよ。
そげんして、十日くらいしたころでしたかいね。トコちゃんが、
『もうすぐ家に帰らなくちゃいけないの』
って言うたんです。
東京の、トコちゃんの本当の家にです。当たり前です、向こうは遊びに来てるだけですけん。そげですけども、そのときは何だか世界が終わるような気がしてしまったですよ。
私ががっかりしたのがわかったのでしょう。トコちゃんは、
『いつもはりっちゃんが秘密の場所に案内してくれていたから、今度は私が秘密を教えるよ』
って言うたです。ああ、私の名前、律子ですけん。いつもりっちゃんって呼ばれてたです。
あのころの子供って、みんな自分だけの秘密の場所を持ってたように思います。
私もそんなところにトコちゃんを案内しては、一緒に遊んでいたんです。
でもよそから来たトコちゃんがそんなことを言い出すとは思っちょらんかったですけん、びっくりしたのを覚えちょります。
そして、だからこそどこへ連れていってくれるんだろうという好奇心もありました。近所に自分の知らんところなんかないはずでしたけんね。
トコちゃんは慣れた足取りですたすたと山に向かって歩き、途中でひょいと薮の中に入りました。
するとよく見なくてはわからない、細い踏み分けられたあとがあって、トコちゃんはそこをどんどん進んで行くのでした。
『これ、どこに続いているの』
なぜだか大声を出してはいけない気がして、私は囁きました。
『おじさんの家の裏』
トコちゃんは答えました。
『いつもこの道を通って遊びに来ていたの。内緒だよ』
道がどんどん登り坂になるにつれ、私は不安になりました。
生まれたときから住んでいるところですけん、土地の様子は知っちょります。けど、山のほうに上がっても何もないはずなんです。
垂郷の他には。
大人たちが行っちゃいけんと言うとる、その場所に向かっているのじゃないかと思うと、私は逃げ帰りたくなってきました。けれど、
『着いたよ』
と言ってトコちゃんがまた茂みをかき分けると、私らはもう見たことのない立派な家の庭に立っておりました。
後から考えれば、近所に東京からお客が来ていたなら噂にならないはずがないのでした。田舎の口はうるさいですけんね。誰も知らんかったのは、付き合いのない場所に来ていたお客だったからなのです。
『こっち』
と言ってトコちゃんは、建物の向こう側に私を案内しようとします。
けれど私は腰が引けてしまって、
『もう帰る』
と言いました。
『せっかく来たのに』
トコちゃんはいぶかしげに首をかしげました。
『おいでよ。普通は見られないもの、特別に見させてあげる。でもちゃんとしてね。ちゃんとしないとおじさんに怒られるから』
その言葉に、きっと嘘はなかったのでしょう。
本当に、友達になった私に何か珍しいものを見せようとしてくれただけだったのでしょう。
だけど私は怖くてたまらなくなって、返事もせずに背中を向けて走り出しました。
『りっちゃん』
トコちゃんが私を呼ぶ声が聞こえましたが、私は振り返りませんでした。
茂みに飛び込んで、踏み分けられたあとをたどって必死に山道をかけ下りました。
遠いところだと思っていた垂郷に案外簡単に行けてしまったことが一番、恐ろしかったように思います。だけん、これも後から考えれば当たり前で、同じ神社の氏子ですけん、そんなに離れたところであるわけもなかったんです。
中学に上がってから地図で調べました。道路はこう、山裾から弧を描くように回って行きますけん、遠回りなんです。けど、まっすぐ尾根を下るなら、私たちの地区と垂郷は隣り合っちょったんです。
住所も一緒ですけんね、郵便のときに書くようなちゃんとしたやつは。うちの方が**ヶ*の千番台で、あっちは三千番台で。下の里が三桁までの番号で。主人がね、市役所に勤めてましたけん。教えてもらったです。
家に帰ってから私は熱を出してしまって、それきりトコちゃんとは会えませんでした。
熱が引いてからもボーッとしがちになり、外に出て遊んだり学校に行ったりすることがひどく億劫になりました。今やったら登校拒否やら、うつ病やら言われるんでしょうが、そんときはうちのじいちゃんが狐つきやないかと言い出しまして。田舎ものやねえ。昭和の話と思えんですね。恥ずかしいですわ。
それで私は、温泉町のほうの古い神社に預けられたですよ。
何をしたわけでもないですけど、お清めしてもらって、神社の手伝いなんかしているうちにだんだん元気になって、一月もしたら家に帰って元通りの生活が出来るようになりましたねえ。
不思議なもんです。
あの日のことは忘れられなかったですけど、主人の他には誰にも話さんで来ました。
事件が起きてねえ、新聞やテレビがわいわい騒いで。
でもねえ、トコちゃんのはずがないと思っちょりますよ。いい子でしたけん、トコちゃん。
處田徳子、言いましたかね。あの人がトコちゃんやないかと思うんです。
年齢も、東京育ちやいうのも、話が合いますけん。




