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第2話 知らない天井

最初に感じたのは、匂いだった。


木の匂い。


よく乾いた板材のような、少し甘くて、少し埃っぽい匂い。


その奥に、草を揉みつぶしたような青臭さが混ざっていた。


薬草だろうか。


久瀬歩くぜ あゆむは、ぼんやりとそんなことを考えた。


病院ではない。

それだけは、目を開ける前から分かった。

病院なら、もっと消毒液の匂いがする。

空調の音がする。

廊下を歩く看護師の足音や、誰かの咳払い、遠くで鳴る機械音がある。

だが、ここにはそれがなかった。


聞こえるのは、鳥の声だけだった。

高く短い鳴き声。

それに続く、笛のような長い声。

歩の知っているスズメでもカラスでもない。

外は朝なのだろうか。

光がまぶたの裏に薄く広がっている。

歩はゆっくり目を開けた。



知らない天井だった。

木の梁が、斜めに組まれている。

梁と梁の間には白い漆喰のような壁があり、そこに朝の光がぼんやり反射していた。

天井からは、小さなガラスの灯りが吊るされている。

電球ではない。

ランプのようだった。

歩はしばらくそれを見つめた。


目を閉じる。

もう一度開ける。

景色は変わらない。


夢ではない。

少なくとも、すぐ覚めるタイプの夢ではなさそうだった。

身体を起こそうとして、背中に硬さを感じた。


ベッドが硬い。

病院のベッドでも、自宅の布団でもない。

木の台の上に薄い寝具を敷いたような感触だった。

身体を動かすと、ぎし、と小さく木が鳴る。

「……どこや、ここ。」

声が少しかすれた。

喉が乾いている。

長い時間眠っていた後のようだった。

歩は上半身を起こし、周囲を見回した。

部屋は広い。

十畳以上はありそうだった。

窓が二つ。

壁際には本棚。

机と椅子。

その机の上には、紙の束と、見慣れないインク瓶のようなものが置かれている。

壁には額縁が掛けられていた。


だが、そこに書かれている文字は読めない。

いや。

読めそうで読めない。

線の形は文字に見える。

だが日本語ではない。

英語でもない。

漢字でもアルファベットでもない。

歩は眉をひそめた。

最後の記憶を辿る。

夏の大会の翌日。

雨上がりのグラウンド。

宮原蒼真みやはら そうまの背中。

グラウンドに向かって頭を下げた姿。

灰色の雲の切れ間から差した光。

そして。

白。

世界を塗りつぶすような白い光。

そこから先がない。

事故に遭ったわけではない。

倒れた記憶もない。

痛みもない。

ただ、光があって、気づけばここにいた。

歩は自分の腕を見る。

傷はない。

脚も動く。

肩も回る。

腰も痛くない。

四十四歳の身体にしては、むしろ少し軽いくらいだった。

「いや、軽いのは怖いな……。」

独り言が漏れた。



その時だった。



コンコン。

扉を叩く音がした。

歩は反射的に顔を上げる。

「はい。」

そう返事をしてから、少し遅れて思った。

ここがどこかも分からないのに、普通に返事をしてしまった。

扉が静かに開いた。


入ってきたのは、一人の女性だった。

銀色の髪。

肩より少し長い髪を後ろでまとめている。

細いフレームの眼鏡。

腕には分厚い本を三冊ほど抱えていた。

服装も見慣れない。

長い上着のようなものを羽織り、腰には小さな革のポーチを付けている。

年齢は二十代半ばくらいだろうか。

表情は落ち着いている。

けれど、歩を見るなり、その目がわずかに見開かれた。


「……目が覚めたのですね。」

静かな声だった。

大きくもなく、小さくもない。

図書館で話す時のような声。

歩は数秒、女性を見た。

女性も歩を見ていた。

お互いに、相手をどう扱っていいのか分からないような沈黙だった。


先に口を開いたのは歩だった。

「ここ、どこです?」

自分でも、もう少し他に聞き方があるだろうと思った。

だが、それが一番知りたかった。

女性は一度だけ瞬きをした。

「アステリア王立学園ですが。」

歩は黙った。

聞いたことのない名前だった。

大学か。

研究施設か。

いや、王立学園と言ったか。

王立。

日本で聞く言葉ではない。

「どこです?」

もう一度聞いた。

女性は少し首を傾げた。

「アステリア王立学園です。」

「いや、あの。」

歩は頭を掻いた。

「そのアステリア王立学園が、どこなんです?」

女性は固まった。

まるで、当たり前すぎることを聞かれて困っているような顔だった。

大阪ってどこですか、と大阪の人に聞いたら、こういう顔をするかもしれない。

そんな場違いな想像が頭に浮かんだ。


女性は抱えていた本を机に置き、椅子を引いた。

「確認させてください。」

「はい。」

「アステリア王国をご存知ありませんか。」

「知りません。」

「王都ルミナスは?」

「知りません。」

「中央魔導協会は?」

「知りません。」

「勇者制度は?」

「知りません。」

女性は黙った。

歩も黙った。

沈黙。

窓の外で、また鳥が鳴いた。

歩はその声を聞きながら、少しずつ嫌な汗が出てくるのを感じていた。

話が噛み合わない。

それも、ただ言葉の意味が違うという程度ではない。

世界の前提が違う。

そんな感覚だった。

女性は眼鏡を押し上げる。

「記憶障害の可能性がありますね。」

「違うと思います。」

「なぜ断言できるのですか。」

「自分の名前も覚えてますし、昨日のことも覚えてます。」

「昨日?」

女性の目がわずかに細くなった。

「あなたは三日前、学園北側の森で発見されました。」

「三日前?」

歩は思わず聞き返した。

「はい。倒れていたところを、巡回中の警備隊が見つけました。」

「森?」

「はい。」

「グラウンドじゃなくて?」

「グラウンド?」

今度は女性が聞き返した。

歩は口を閉じた。

また噛み合っていない。

どう説明すればいいのか分からなかった。


女性は机の上の紙を一枚取った。

いや、紙ではない。

羊皮紙のように見える。

そして、ポーチから羽根ペンを取り出した。

歩は思わずそれを見つめた。

本物だ。

映画の小道具ではない。

テーマパークでもない。

当たり前の道具として、女性はそれを使おうとしている。

「あなたのお名前は?」

女性が尋ねた。

「久瀬歩です。」

「クゼ、アユム。」

女性は発音を確かめるように繰り返し、羊皮紙に文字を書いた。

歩はその手元を見る。

文字はやはり読めない。

だが、彼女は迷いなく書いている。

書き慣れている。

この世界では、それが普通なのだ。

「年齢は?」

「四十四です。」

「四十四……なるほど。」

「なるほど?」

「いえ。思ったより落ち着いていらっしゃるので。」

「落ち着いてるように見えます?」

「少なくとも、叫んではいません。」

「今叫んでも仕方ないかなと思って。」

女性は少しだけ目を丸くした。

それから、ほんのわずかに口元を緩めた。

笑った、のかもしれない。

だが本当に一瞬だった。

「私はエスと申します。」

「エスさん。」

「呼び捨てで構いません。」

「いや、初対面なので。」

「律儀ですね。」

「普通です。」

エスは羽根ペンを止め、歩をじっと見た。

その視線には、警戒と興味が混ざっていた。

歩にもそれは分かった。

お互い、相手が何者か分からない。

ただ、敵意はない。

少なくとも今のところは。

「久瀬歩さん。」

「はい。」

「あなたはご自身がどこから来たか、説明できますか。」

歩は少し考えた。


日本。


宝ヶ丘第一中学校。


野球部。


グラウンド。


説明できる。

だが、説明したところで伝わる気がしなかった。

「日本です。」

「ニホン。」

エスはまた羊皮紙に書く。

「それは国名ですか。」

「国名です。」

「大陸は?」

「大陸?」

「どの大陸に属していますか。」

歩は答えに詰まった。

アジア。

ユーラシア。

そう言えばいいのだろうか。

だが、それが通じるとは思えなかった。

「たぶん、ここの地図には載ってないと思います。」

エスの羽根ペンが止まった。

部屋の空気が少し変わる。

「なぜそう思うのですか。」

「逆に、アステリア王国っていう国は、僕のいた世界の地図にはなかったです。」

「……。」

「たぶんですけど。」

歩は深く息を吐いた。

言葉にすると、急に現実味が増した。

「僕、違う世界から来たんじゃないですかね。」

言ってしまった。

言った瞬間、自分でも馬鹿げていると思った。

だが、エスは笑わなかった。

否定もしなかった。

ただ静かに歩を見ていた。

その反応が、逆に怖かった。

「可能性は低いですが。」

エスはゆっくり言った。

「ゼロではありません。」

「ゼロじゃないんですか。」

「この世界には、転移魔法、召喚術、空間歪曲、神隠しに近い現象の記録があります。」

歩は言葉を失った。

転移魔法。

召喚術。

空間歪曲。

言葉だけなら漫画やゲームで見たことがある。

だが、それを目の前の女性が真面目な顔で言っている。

歩は天井を見上げた。


木の梁。


白い壁。


ガラスのランプ。


そして、窓の外の鳥の声。


全部が急に遠く感じた。


「……ほんまに異世界か。」

小さく呟いた。

エスはその言葉を聞き逃さなかった。

「イセカイ、というのは?」

「僕のいた世界では、そういう話があるんです。」

「別世界へ移動する物語ですか。」

「そんな感じです。」

「なるほど。」

エスは何かを記録した。

歩はその様子を見ながら、少しだけ冷静になった。

目の前の女性は、混乱していない。

むしろ状況を整理しようとしている。

それがありがたかった。

一人だったら、もっと取り乱していたかもしれない。

「エスさん。」

「エスで構いません。」

「じゃあ、エス。」

「はい。」

「ここ、学校なんですよね。」

「はい。アステリア王立学園です。」

「子どもはいるんですか。」

エスは少しだけ不思議そうな顔をした。

「もちろんです。学園ですから。」

歩は窓の外を見る。

鳥の声。

知らない空。

知らない世界。

けれど、学校がある。

子どもがいる。

その情報だけで、少しだけ足元が戻ってきた気がした。

「部活はあります?」

「ブカツ?」

エスは首を傾げた。

歩はそこで、初めて本気で不安になった。

異世界に来たことより。

魔法や召喚術より。

なぜかその言葉が通じないことの方が、ずっと怖かった。

「放課後に子どもが集まって、スポーツとか文化活動とかするやつです。」

「課外活動のことでしょうか。」

「たぶんそれです。」

「あります。剣術研究会、魔導理論会、薬草調合会、戦術盤研究会など。」

「野球部は?」

エスは瞬きをした。

「ヤキュウブ?」

「はい。」

「ヤキュウとは何ですか。」

歩は固まった。

今度こそ。

本当に固まった。

異世界かもしれない。

魔法があるかもしれない。

勇者制度があるかもしれない。

そこまでは、まだ飲み込めた。


だが。


野球がない。


その可能性だけは、考えていなかった。

「野球、知らないんですか。」

「知りません。」

「ボール投げて。」

「はい。」

「棒で打って。」

「はい。」

「走って。」

「はい。」

「九人で守る。」

「……なぜ?」

歩は口を開いたまま止まった。

なぜ。

確かに、野球を知らない人に説明すると、なぜだらけになる。

歩は頭を抱えた。

「甲子園は?」


「コウシエン?」


「プロ野球は?」


「プロ……?」


歩はゆっくり目を閉じた。

深く息を吸う。

そして吐く。

魔王がいる。

勇者がいる。

魔法がある。

それはいい。

いや、よくはないが、そういう世界なのだろう。


しかし。

野球がない。


それは、歩にとって世界の根っこが一本抜けているような感覚だった。

歩の脳裏に、蒼真の顔が浮かぶ。

『高校でも続けたいと思えました。』

あの言葉。

あのグラウンド。

あの土の匂い。

この世界には、それがない。

なら。

歩はゆっくり目を開いた。

エスがこちらを見ている。

不安そうではない。

困惑している。

観察している。

この男が次に何を言うのか、警戒しているようでもあった。

歩は真顔で言った。

「野球部、作らなあかんな。」

エスは黙った。

一秒。

二秒。

三秒。

やがて、彼女は本気で困ったように眼鏡を押し上げた。

「あなたは今、自分が異世界にいる可能性を理解していますか。」

「してる。」

「魔法が存在する世界です。」

「うん。」

「勇者制度もあります。」

「うん。」

「魔王領もあります。」

「うん。」

「それでも最初に考えることが、ヤキュウブなのですか。」

歩は首を傾げた。

他に何を考えるのだろう。

学校がある。

子どもがいる。

なら、居場所がいる。

挑戦する場所がいる。

失敗してもまた来られる場所がいる。

歩は蒼真の顔を思い出した。

ボールを怖がっていた一年生。

泣きそうな顔で「続けていいですか」と聞いた少年。

最後に「甲子園を目指してみたい」と言った主将。

あの顔を見てしまった人間は、もう知っている。

子どもは、場所があれば変わる。


だから歩は言った。


「子どもがおるんやろ。」

「います。」

「学校なんやろ。」

「はい。」

「ほな、作れる。」

エスは何も言わなかった。

ただ、目の前の男を見つめていた。

この人は変だ。

間違いなく変だ。

けれど、ただの混乱した異世界人ではない。

何か一本、芯のようなものがある。

それが何なのかは、まだ分からない。

けれど。

エスはその時、ほんの少しだけ思った。

この男が言うヤキュウというものを。

一度だけ見てみてもいいかもしれない、と。


第2話 終

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