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第3話 窓の向こうの世界

「少し外を見ますか。」

エスがそう言った時、久瀬歩くぜ あゆむは一瞬だけ返事に迷った。


外。

その言葉が、妙に遠く感じた。

扉一枚の向こうにあるだけの場所のはずなのに、歩にはそれがまるで国境の向こう側のように思えた。


目を覚ました部屋。


木の匂い。


知らない天井。


銀色の髪をした司書。


羽根ペン。


羊皮紙。


アステリア王立学園。


勇者制度。


魔王領。


そして、野球を知らない世界。



それだけでも、すでに頭の中は十分すぎるほど混乱していた。

外へ出れば、もっと確定してしまう。

ここが日本ではないこと。

ここが自分の知っている世界ではないこと。

その事実を、目で見てしまう。

歩は少しだけ窓へ視線を向けた。

部屋の中にも窓はあった。

けれど、その窓から見えるのは空の一部と木の葉だけだった。

現実を直視するには、まだ足りなかった。

エスは扉の前で待っている。

急かすことはしなかった。

ただ、静かに立っていた。

その立ち姿に、歩は少しだけ感心した。

若く見えるのに、落ち着いている。

人を観察する目をしている。

感情を表に出しすぎず、でも完全に隠しているわけでもない。

困惑もしている。

警戒もしている。

だが、それ以上に、この状況を整理しようとしている。

そういう人間だった。


「行きます。」

歩はそう言って、ベッドから足を下ろした。

床は冷たかった。

木の床だ。

靴下越しにも、ひんやりとした感触が伝わってくる。

立ち上がった瞬間、少しだけ視界が揺れた。

エスがすぐに気付く。

「大丈夫ですか。」

「大丈夫。」

歩は片手を上げた。

「寝起きやから。」

そう言ったが、本当は少し違った。

身体が妙に軽い。

昨日までの疲れがない。

夏の大会の翌日だったはずだ。

一日中ベンチで声を出し、荷物を運び、試合後には保護者への挨拶もした。

夜には蒼真の最後の打席を何度も思い出して、あまり眠れなかった。

そのはずなのに。

肩の重さがない。

腰の張りもない。

四十四歳の身体から、疲労だけが綺麗に抜き取られたようだった。

それが気味悪かった。

歩はその違和感を胸の奥に押し込み、エスの後ろについて部屋を出た。


扉の先は、長い廊下だった。

歩は思わず足を止めた。

広い。

最初にそう思った。

次に、高い、と思った。

天井が異様に高い。

日本の学校の廊下とはまるで違う。


石造りの壁。


重厚な柱。


足元には深い赤色の絨毯。


壁には真鍮の燭台のようなものが並んでいる。

窓から差し込む朝の光が、床の上に長い帯を作っていた。


埃が光の中でゆっくり舞っている。

その動きが、妙に鮮明に見えた。

歩はしばらく言葉を失っていた。

映画のセットのようだと思った。

けれど違う。

これは作り物ではない。


壁の石には細かな傷がある。


柱の根元は少し擦れている。


絨毯の端には、何度も人が歩いた跡がある。


長く使われてきた建物の匂いがした。


木と石と埃と本。


そんな匂いだった。

「……学校なんですよね。」

歩は小さく聞いた。

「学園です。」

エスは前を向いたまま答える。

「アステリア王国で最も古い学園の一つです。」

「学校っていうより、城やな。」

「城ではありません。」

「分かってるけど。」

歩は廊下を見上げる。

「日本の中学校とは全然違う。」

「ニホンの中学校というものが分かりませんが、ここは王立学園です。王国各地から生徒が集まります。」

「何人くらい?」

「年度によって変わりますが、在籍生徒は三千人ほどです。」

「三千?」

歩は思わず声を上げた。

「多っ。」

宝ヶ丘第一中学校とは比べものにならない。

歩が知っている学校の規模を軽く超えていた。

三千人。

それだけの子どもがいる。

その事実に、歩の中で妙な感情が動いた。


不安。


驚き。


そして、少しの期待。


エスは歩の表情を横目で見た。

「何か気になることでも?」

「いや。」

歩は少し笑った。

「子ども多いなと思って。」

「学園ですから。」

「そうやな。」

歩は頷いた。

学園。

学校。

子ども。

その言葉だけは、自分の世界と繋がっている気がした。



廊下を歩く。

赤い絨毯の上を踏むたびに、靴音が柔らかく吸い込まれる。

途中で何人かの生徒とすれ違った。


ローブ姿の少女。


木剣を背負った少年。


分厚い本を抱えた小柄な生徒。


歩を見るたびに、彼らは少しだけ視線を向ける。


見慣れない服装。


見慣れない顔。


それはお互い様だった。

歩も彼らを見ていた。

髪の色が違う。


金色。


赤茶色。


青みがかった黒。


目の色も違う。

だが、表情は同じだった。


眠そうな子。


友達と笑っている子。


廊下を走りそうになって、教師らしき人物に睨まれている子。


どこの世界でも、子どもは子どもなのだと思った。

そのことに、少しだけ救われた。


やがてエスは廊下の突き当たりで足を止めた。

そこには大きな窓があった。

人が二人並んでも余裕があるほどの幅。

天井近くまで伸びる縦長の窓。

透明なガラス越しに、朝の光が溢れている。

「こちらです。」

エスが言った。

歩はゆっくり窓へ近付いた。

足元の赤い絨毯が終わり、石の床に変わる。

石はひんやりとしていた。



窓の前に立つ。

そして外を見た。

息が止まった。

そこには、街があった。

いや。

街という言葉では足りなかった。

歩が知っている街ではない。

ビルはない。

電柱もない。

信号もない。

車も走っていない。

それなのに、人の営みがあった。

赤茶色の屋根が幾重にも連なっている。

石造りの家々が、丘の斜面に沿って並んでいる。

細い道が街を縫うように走り、その上を荷車がゆっくり進んでいた。

広場には小さな露店が並び始めている。


布を広げる商人。


籠を運ぶ少年。


水を撒く老人。


白い煙を上げる煙突。


どれも知らない景色だった。

なのに、生活の匂いがした。

遠くには高い塔が見える。

塔の上には旗が揺れていた。

さらに向こうには森。

その奥には山。

空は高く、青かった。

日本の夏の空とは違う青だった。

湿気が少ない。

光が澄んでいる。

世界が広く見える。

歩は窓枠に手を置いた。

指先に冷たい石の感触が伝わる。

夢ではない。

そう思った。

夢なら、こんなに指先が冷たくはない。

夢なら、風に乗って届く焼きたてのパンのような匂いを、こんなにはっきり感じない。

歩は長い時間、何も言えなかった。

頭の中で、いくつもの言葉が浮かんでは消える。

すごい。

ありえない。

どこやねん。

帰れるのか。

家族は。

仕事は。

蒼真は。

全部が一度に押し寄せてきた。

けれど、そのどれも言葉にならなかった。

喉の奥で止まる。

「……ほんまに。」

ようやく出た声は、かすれていた。

「異世界なんやな。」


エスは隣で黙っていた。

その沈黙は、肯定でも否定でもなかった。

ただ、歩が受け止める時間を邪魔しないための沈黙だった。

その静けさがありがたかった。

歩は窓の外を見たまま、少しだけ目を細めた。

胸の奥がざわつく。

怖い。

不安。

でも。

同時に、目が離せなかった。

知らない世界が目の前にある。

それは恐ろしくもあり、どうしようもなく鮮やかでもあった。

その時だった。

空の端で、何かが動いた。

歩の視線が反射的にそちらへ向く。

癖だった。

打球を追う時の癖。

外野へ上がったフライを見る時の癖。

白球の軌道を逃さないように、目が勝手に動く。

最初は鳥だと思った。

だが違った。

大きい。

あまりにも大きい。

翼を広げれば二十メートルはある。

いや、もっとかもしれない。

長い首。

細い尾。

太陽の光を受けて光る鱗。

翼が一度大きく羽ばたくたびに、空気そのものが揺れているように見えた。

歩は思わず窓に身を乗り出した。

「今の。」

声が裏返った。

「今の見た?」

エスは外を一瞥した。

「ああ、飛竜ですね。」

当たり前のように言った。

その口調があまりにも普通だったので、歩は逆に驚いた。

「飛竜。」

「はい。」

「ドラゴンやん。」

「厳密には竜種の中でも小型の飛行種です。」

「いや、ドラゴンやん。」

歩は空を見上げたまま言った。

飛竜は街の上空を大きく旋回していた。

その背には人影がある。

乗っている。

本当に乗っている。

手綱のようなものを握り、身体を低くして風を受けている。

歩は言葉を失った。

飛行機でもヘリでもない。

生き物に乗って空を飛んでいる。

その光景を見て、胸の奥が熱くなった。

怖さではない。

驚き。

興奮。

四十四歳の大人として抑えようとしても、抑えきれないものだった。

初めて大きな球場に入った時の感覚に似ていた。

視界が広がる。

世界が広がる。

こんなものがあるのか、と胸が震える。

歩はしばらく飛竜を目で追い続けた。

飛竜はやがて塔の向こうへ消えていった。

その姿が見えなくなっても、歩はしばらく空を見ていた。

「……すごいな。」

小さく呟く。



エスはそんな歩の横顔を見ていた。

さっきまで異世界に来た可能性を冷静に受け止めていた男が、飛竜を見た途端、少年のような顔をしている。

変な人だ。

やはり変な人だ。

けれど。

その表情は、嫌いではなかった。

エスはそう思ってから、自分で少し驚いた。

まだ出会って間もない。

素性も分からない。

本当に別世界から来たのかも分からない。

警戒すべき相手のはずだった。

それなのに。

この男は、どこか警戒しきれない。



「久瀬歩さん。」

エスが言った。

「歩でええよ。」

窓の外を見たまま、歩は答えた。

「では、歩さん。」

「さんもいらんけど。」

「それは却下します。」

「早いな。」

歩は少し笑った。

エスは表情を変えずに続ける。

「今見たものが、この世界です。」

歩はゆっくり頷いた。


街。


飛竜。


王立学園。


知らない生徒たち。


知らない空。


知らない風。


知らない匂い。


それらが一つずつ積み重なり、現実になっていく。


「この世界には、魔法があります。」

「うん。」

「勇者を育てる制度があります。」

「うん。」

「魔王領との緊張もあります。」

「うん。」

「あなたの知る世界とは、かなり違うはずです。」

「違うな。」


歩は窓から手を離した。

石の冷たさが指先に残っていた。

「でも。」

エスが少しだけ首を傾げる。

歩は校庭の方を見た。


遠くで生徒たちが走っている。


木剣を持った少年が転んだ。


仲間が笑う。


教師らしき人物が何かを叫ぶ。


転んだ少年は照れ臭そうに立ち上がり、また走り出した。


歩はその姿を見て、少しだけ笑った。

「子どもは同じやな。」

「同じ?」

「走って、転んで、怒られて、また走る。」

歩の声は静かだった。

「どこの世界でも、そこは変わらんのやなと思って。」

エスは何も言わなかった。

窓の外から、子どもたちの声がかすかに届く。


笑い声。


掛け声。


怒られる声。


それは確かに、歩の言う通りだった。

この世界には魔法がある。

飛竜が飛んでいる。

王国があり、勇者がいて、魔王がいる。

けれど。

子どもたちが走る音だけは、どこか懐かしかった。

歩はその音を聞きながら、蒼真の顔を思い出していた。


ボールを怖がっていた一年生。


主将になった三年生。


グラウンドに頭を下げて去っていった少年。


場所があれば、子どもは変わる。

それを歩は知っている。

この世界にも、そういう子がいるかもしれない。

まだ自分の場所を見つけていない子。

失敗して、立ち止まっている子。

誰かに「来てもええ」と言ってもらうのを待っている子。

歩は小さく息を吐いた。


異世界。


魔法。


飛竜。


勇者。


魔王。


全部とんでもない。

けれど。

自分がやることは、たぶんそんなに変わらない。

「エス。」

「はい。」

「この学園、空き地ある?」

エスは歩を見た。

少しだけ、嫌な予感がした。

「空き地、ですか。」

「広めの。」

「何に使うのですか。」

歩は当然のように答えた。

「グラウンド。」

エスは深く息を吐いた。

廊下の静けさの中で、そのため息だけが妙にはっきり聞こえた。

「……やはり、そこへ戻るのですね。」

「戻るというか、そこから始まるやろ。」

歩は窓の向こうの校庭を見ながら言った。

風が吹いた。

赤い絨毯の端が、ほんの少し揺れた。



エスはもう一度、窓の外を見た。


走る子どもたち。


知らない世界から来た男。


そして、まだ存在しない野球部。

面倒なことになりそうだ。

かなり。

それでも。

エスは不思議と、完全には否定できなかった。

第3話 終

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