第1話 夏が終わった日
土の匂いがした。
昨日の夕立が残した、夏のグラウンド特有の匂いだった。
乾いた土が雨を吸い込み、朝になってまた熱を持ち始める。その湿った匂いは、汗と泥と草の匂いに似ていた。
久瀬歩は、その匂いが好きだった。
グラウンドの向こうでは、セミがうるさいくらい鳴いている。
白線の消えかけた一塁線。
昨日の試合後にかけたトンボの跡。
ベンチの隅に残った、誰かのスパイクの土。
全部が昨日の名残だった。
昨日、宝ヶ丘第一中学校野球部の夏は終わった。
部員四人。
単独では試合に出られない小さな野球部。
大会には合同チームとして出場した。
結果は一回戦負け。
スコアだけ見れば、惜敗とは言えない。
だが、歩の中では違った。
あの試合には、三年間の全部があった。
声が出なかった子が、ベンチの前で誰よりも大きな声を出していた。
ボールを怖がっていた子が、最後の打席で逃げずにバットを振った。
走るのが嫌いだった子が、凡打でも一塁まで全力で駆け抜けた。
勝てなかった。
でも、何も残らなかったわけではない。
歩はそう思っていた。
「監督。」
後ろから声がした。
振り返ると、宮原蒼真が立っていた。
昨日までユニフォームを着ていた三年生の主将。
今日は制服姿だった。
その姿を見ただけで、歩は「ああ、終わったんやな」と思った。
「来てたんか。」
「はい。」
蒼真は少し照れたように笑った。
「監督も来てると思って。」
「読まれてるな。」
「先輩らが言ってました。監督、最後の大会の次の日は絶対グラウンドにおるって。」
「余計なこと教えるなぁ。」
歩は苦笑した。
けれど、少し嬉しかった。
卒業していった生徒たちが、この場所のことをまだ覚えている。
歩が何をしているかまで、誰かに話している。
それだけで、このグラウンドで過ごした時間が消えていない気がした。
蒼真は歩の隣に並び、しばらく黙ってグラウンドを見ていた。
夏の朝なのに、昨日の雨のせいで空気はまだ重い。
外野の端に残った水たまりに、雲が映っている。
遠くの校舎からは吹奏楽部の音がかすかに聞こえた。
学校は今日も動いている。
けれど、野球部だけは昨日でひとつ終わっていた。
「静かですね。」
蒼真が言った。
「そうやな。」
「昨日まで、あんなにうるさかったのに。」
「四人しかおらんのに、ようあそこまでうるさくできたな。」
「監督が声出せって言うからですよ。」
「言われて出せるなら大したもんや。」
蒼真は笑った。
入部した頃には見られなかった笑い方だった。
一年生の春。
宮原蒼真は、どう見ても野球少年ではなかった。
制服は少し大きく、肩幅もまだ狭い。
グローブのはめ方もぎこちなく、帽子のつばを触ってばかりいた。
入部理由もはっきりしなかった。
友達に誘われたから。
家にいても暇だから。
運動部に入れと言われたから。
そんなところだった。
最初のキャッチボールの日のことを、歩はよく覚えている。
グラウンドの端で、歩は蒼真に向かって軽くボールを投げた。
本当に軽い球だった。
山なりで、胸の前に落ちるようなボール。
けれど蒼真は、グローブを出したまま目を閉じた。
ボールはグローブの先に当たり、ぽとりと土の上に落ちた。
二球目。
少しだけ横に逸れた。
その瞬間、蒼真は肩をすくめ、顔を背けた。
白球は後ろへ転がっていく。
上級生たちは笑わなかった。
笑えなかった。
蒼真の手が震えていたからだ。
歩はボールを拾い、近づいた。
「怖いか。」
蒼真は頷かなかった。
けれど、否定もしなかった。
唇を噛み、目だけが少し赤くなっていた。
「今日はここまででええ。」
歩がそう言うと、蒼真は顔を上げた。
「いいんですか。」
「ええよ。」
「でも、みんなやってます。」
「みんなはみんなや。」
歩は転がったボールを手の中で回した。
「お前はまず、ボールを見るところからや。」
その日、蒼真は最後まで体験には残った。
けれど翌日から来なくなった。
二日目も来ない。
三日目も来ない。
四日目の夕方、歩は蒼真の家を訪ねた。
辞めるなら、それでも仕方ないと思っていた。
無理に続けさせるつもりはなかった。
ただ、怖いまま終わらせるのはもったいなかった。
玄関から出てきた蒼真は、あの日と同じように俯いていた。
「すみません。」
最初にそう言った。
歩は首を振った。
「謝りに来たんちゃう。」
蒼真は小さく顔を上げた。
「下手でも、続けていいですか。」
その声は消えそうなくらい小さかった。
でも、歩にははっきり聞こえた。
「当たり前や。」
即答だった。
蒼真は目を丸くした。
「でも俺、全然できません。」
「知ってる。」
「ボールも怖いです。」
「それも知ってる。」
「みんなの邪魔になるかもしれません。」
「なるやろな。」
蒼真は固まった。
歩は笑った。
「でも、最初からできる奴なんかおらん。」
夕方の住宅街に、カラスの声が響いていた。
どこかの家から夕飯の匂いがしていた。
蒼真は何も言わなかった。
歩は続けた。
「辞める理由は、いくらでも見つかる。」
「……はい。」
「でも、続ける理由も探してみ。」
蒼真は、その言葉を黙って聞いていた。
「明日、グラウンド来い。」
「行っていいんですか。」
「来たいなら来い。」
次の日。
蒼真は来た。
グローブを抱えて、半分泣きそうな顔で。
そこからの三年間は、決して劇的なものではなかった。
蒼真はいきなり上手くなったわけではない。
一年生の夏も、まだボールを怖がっていた。
外野ノックでは一歩目が遅れた。
フライが上がると足が止まった。
打撃では、バットがなかなか出なかった。
三振も多かった。
それでも、蒼真は来た。
雨で中止になった日以外、ほとんど休まなかった。
最初は声も小さかった。
「お願いします」も聞こえない。
返事も遅い。
ベンチにいても存在感がなかった。
けれど、二年生になった頃から少しずつ変わり始めた。
後輩が入ってきた。
自分より小さく、自分より不安そうな一年生が、グローブを抱えて立っていた。
その時、蒼真は初めて自分から声を掛けた。
「大丈夫。俺も最初、全然捕れへんかったから。」
歩はそれを少し離れた場所で聞いていた。
嬉しかった。
技術を教えたわけではない。
すごいことを言ったわけでもない。
ただ、自分の弱さを使って誰かを安心させた。
それは大きな成長だった。
三年生になると、蒼真は主将になった。
実力で選んだわけではない。
一番上手い選手だったわけでもない。
けれど歩は、蒼真を主将にした。
一番失敗してきたからだ。
一番できない時間を知っていたからだ。
そして、できない子の気持ちが分かるからだ。
蒼真は最初、何度も聞いた。
「俺でいいんですか。」
歩は何度も答えた。
「お前がええ。」
その言葉から、蒼真は最後まで逃げなかった。
夏の暑い日、誰よりも早く来て道具を出した。
冬の寒い日、誰よりも最後に倉庫の鍵を閉めた。
声が小さかった少年は、いつの間にかグラウンドの端まで届く声を出すようになっていた。
「監督。」
今、隣に立つ蒼真が言った。
「ん?」
「野球、そんなに上手くなれませんでしたけど。」
歩は少し笑った。
「またその話か。」
「いや、なんか最後やと思うと。」
蒼真は照れ臭そうに頭を掻いた。
歩は黙って待った。
蒼真は昔からそうだ。
言葉にするまで時間がかかる。
焦らせると、本音が引っ込む。
だから待つ。
グラウンドの静けさの中で、蒼真はゆっくり口を開いた。
「プロ行くような選手にはなれません。」
「まだ中学生や。」
歩は即座に返した。
「そんなもん今決まるか。」
蒼真は笑った。
三年前なら、この言葉も軽い慰めに聞こえただろう。
でも今の蒼真には、少し違って聞こえた。
結果はまだ先にある。
今は途中。
そう言われている気がした。
「でも。」
蒼真はグラウンドを見た。
「ここで野球やらせてもらえたから。」
歩は黙って聞いていた。
「高校でも続けたいと思えました。」
その言葉に、歩は少しだけ目を細めた。
蒼真は続けた。
「前までは、中学で終わりやと思ってたんです。」
「うん。」
「正直、そこまで野球好きでもなかったですし。」
歩は笑った。
「知ってる。」
「ですよね。」
二人とも少し笑った。
その笑い声は、雨上がりのグラウンドに小さく溶けた。
蒼真は真面目な顔に戻る。
「でも今は違います。」
風が吹いた。
水たまりの表面が揺れる。
「甲子園とか。」
蒼真は少し恥ずかしそうに視線を落とした。
「そんな場所も、目指してみたいなって思えるようになりました。」
歩は何も言わなかった。
言葉にすると、安っぽくなる気がした。
監督をしていると、勝った試合も負けた試合もいつか薄れていく。
スコアも、大会結果も、細かな場面も、時間とともに少しずつ曖昧になる。
でも、こういう言葉だけは残る。
ずっと残る。
「多分。」
蒼真は続けた。
「俺は、すごい選手にはなれへんかもしれません。」
「そんなこと分からん。」
歩はすぐに言った。
蒼真は苦笑する。
「でも。」
そして真っ直ぐ歩を見る。
「ここがなかったら、そこを目指そうとも思えませんでした。」
歩は黙った。
胸の奥が少し熱くなる。
全国に連れて行ったわけではない
県大会で勝たせたわけでもない。
強豪チームに育てたわけでもない。
でも。
一人の子どもの未来を、少しだけ広げることはできた。
それは、歩にとって何より大きな勝利だった。
蒼真は深く頭を下げた。
「ありがとうございました。」
歩は照れ臭そうに頭を掻いた。
「まだ終わってへんやろ。」
蒼真が顔を上げる。
「え?」
「高校でも続けるんやろ。」
「はい。」
「ほな、まだ途中や。」
蒼真は笑った。
今度は少しだけ涙を浮かべながら。
「はい。」
その返事は、三年間で一番良い返事だった。
蒼真は帰っていった。
校舎の横を抜け、正門へ向かって歩いていく。
何度も振り返ることはしなかった。
一度だけ、グラウンドの入口で立ち止まった。
そして小さく頭を下げた。
歩にではない。
グラウンドに向かって。
それから、蒼真は前を向いて歩き出した。
歩はその背中を最後まで見送った。
グラウンドには再び静けさが戻った。
ベンチも。
バックネットも。
マウンドも。
昨日と同じ場所にある。
なのに、何かが終わっていた。
そして、何かが始まろうとしていた。
歩は空を見上げた。
灰色の雲の切れ間から、夏の光が差していた。
「終わったなぁ……。」
小さく呟いた。
その瞬間だった。
世界が白く染まった。




