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第9話

「あれは幻獣種だ」


アカドの声は淡々としていた。

その言葉を聞いた途端、帳簿を見ていた奴隷商人の手が、初めてわずかに止まった。


だが俺は、その一瞬を見逃さなかった。前世で、交渉のテーブルの上の微細な震えを読むことで飯を食ってきた人間だ。相手の手が止まる瞬間、それは嘘がばれたか、想定外のカードが出たという意味だ。


この場合は、前者だった。

アカドが続けて言った。


「一度見た生き物の姿に変わることができる、特異個体でな」


なぜこの情報を彼が教えてくれるのか、俺にはわからなかった。

だが、黙って聞いた。


知らないことを知らないと認めるのは、弱点ではない。知らないのに知ったふりをするのが、弱点だ。


奴隷商人の表情が、瞬く間に変わった。

止まっていた手が、再び動き出した。

そして、笑った。

卑屈な笑みだった。


「あっはは! お客さん、さすがにお目が高い!」


一拍にも満たない切り替えだった。秘密がばれたという動揺を、ずる賢い商売気で覆い隠すのにかかった時間が、一秒にも満たなかった。

底辺で転がってきた者だけが持てる、瞬発力だった。


奴隷商人が身を乗り出し、声を一段低くした。


「ええ、幻獣種ですよ。まだ売れていないのは……まあ、それだけ貴重な個体だという意味でもありますがね」


「それだけ厄介で、扱いにくい生き物だということだろう」


奴隷商人の顔が強張った。

さっきとは違う種類の停止だった。アカドが正体を明かしたときは、秘密がばれた狼狽だったが、今は急所を突かれた者の硬直だった。


「そ、それは……」


「幻獣種が変身能力を持っているなら、制御できなければ商品価値はない。価値のない品が売れないのは、当然のことじゃないか」


俺は、その揺らぎを見逃さず、もう一言を重ねた。


「ずいぶん長く連れ歩いたようだな。餌代も馬鹿にならなかっただろう」


これは推測ではなかった。

奴隷商人の帳簿を、さっきちらりと見た。入荷日に対して、滞留期間の長い項目が一つあった。餌代が累積しているということは、それだけ長く抱え込んでいるという意味だ。


売れない在庫は、保有コストを食う。

金融の基本中の基本。


奴隷商人の顔から、卑屈な笑みが完全に消えた。

代わりに、別のものが浮かび上がってきた。

切迫。


『今だ』


底辺の商人は、自尊心で飢えはしない。この男が今考えているのは、一つだけだ。この機会を逃せば、この品を投げ売りする次の機会が、いつ来るかわからないということ。


だが、奴隷商人は奴隷商人だった。

崩れると思っていた男が、姿勢を直して座り直した。

目から切迫が消えはしなかったが、その上に、何かが上書きされた。

商人の本能。


「お客さん」


声が変わった。卑屈さが抜け、真剣さが入ってきた。これは演技なのか本心なのか、区別がつかないトーンだった。良い商人であるほど、その境界がない。


「正直に申し上げましょう」


奴隷商人が、天幕の奥を指さした。


「あの個体は、中央大陸から来たものです」


中央大陸。

この体の記憶が反応した。聖国と西大陸の間の緩衝地帯。両勢力の間で綱渡りをする国々が点在する場所。


そこから流れてきた幻獣種、か。


「この大陸で幻獣種を求めるなら、お客さん。一匹だけです。あそこにいる、あれですよ」


奴隷商人が、さらに身を乗り出した。


「厄介だというのは、その通りです。認めます。ですが、厄介なだけ価値があるということ。扱い方さえ知れば、この大陸のどこでも手に入らない()()ですよ」


資産、という言葉を使った。

品物でも、奴隷でもない。資産。

この男は、俺がどういう種類の人間なのか、もう読み始めていたのだ。


「今、お買いにならなければ」


奴隷商人が、目を細めた。


「一生、後悔なさいますよ」


良い圧だった。

前世で、これくらいのクロージング話法を使うセールスマンは、かなり高い成績を出した。切迫を認めつつ、その切迫を相手に転移させる技術。底辺の闇市で、こんな人間に出会うとは思わなかった。


だが、今は駆け引きの最中だ。他人の技術に感心しすぎるのは禁物だった。


奴隷商人が、自信を取り戻した顔で値を口にしようとした。


「これほどの個体なら、金――」


「銀貨三枚」


奴隷商人の口が、開いたまま止まった。


「……は?」


「銀貨三枚だと言った」


天幕の中が、静まり返った。

アカドが隣で、微動だにしなかった。表情は読めなかった。


奴隷商人の顔が赤らんだ。侮辱なのか怒りなのか、区別のつかない色が、首から上ってきた。


「お、お客さん。今、ご冗談を……」


「冗談ではない」


俺は、彼の目を静かに見据えた。

数えきれないほどのクライアントを相手にしてきたときと同じように、何の感情もなく奴隷商人を見つめると、商人の体がびくりと震えたのがわかった。


だが、間違いなくここが、俺がディールを仕掛けられる最後のポイントだった。

この完璧な論理で相手を突き崩す機会を逃せば、馬鹿も同然だった。

10分後に次の話が続きます。 少しだけお待ちください!

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