第10話
「幻獣種だというのは認める。中央大陸の出だというのもな。だが、お前の言う通り、厄介で制御の利かない個体を抱え込み、餌代を食わせながら市場を渡り歩いた期間が、どれほどになる」
奴隷商人の口が、閉じた。
「一月か? 二月か? それ以上だろう。その間、ただの一人の買い手も、金貨という値を付けたことはなかったはずだ。あったなら、お前がここにいるはずがないのだからな」
沈黙。
奴隷商人の目が、揺れた。
反論したいが反論できない者の顔だった。
事実という刃で急所を突くのは、どんな交渉術よりも残酷な武器だった。
「銀貨三枚。お前が今までこの個体に費やした餌代を差し引けば、それが残る利益のすべてだろう」
俺は、コートの内ポケットから金貨を一枚取り出した。
金貨を、天幕の床にぽとりと落とした。
金属が石の床に当たる音が、狭い天幕の中で響いた。
奴隷商人が、金貨を見下ろした。
銀貨三枚と吹っ掛けておきながら、金貨一枚を投げた。
百倍の開き。
計算が合わない。
だが、それは奴隷商人が考える問題だった。
俺は身を翻し、天幕の出口へと足を向けた。
背後に、一言を投げた。
「取っておけ」
天幕を出ると、アカドが待っていた。
何も言わず、俺を見ていた。表情は読めなかったが、その目の中で、何かが変わったのが感じられた。
その視線を背に残したまま、俺は足を止めなかった。
止める必要がなかった。
理由はただ一つ。
奴隷商人が、金貨を両手で握りしめたまま追ってきたからだ。
「ま、待ってくだせえ! 旦那!」
それは、彼には珍しい純粋な感情、困惑だった。
「これは、これはあまりにも大きな金額です!」
奴隷商人の声が震えた。喜びと当惑が入り混じった、震え。
「銀貨三枚とおっしゃったのに、金貨一枚では、その差を……お返ししなければならないのに……」
彼が、辺りを見回した。
闇市の露店。油ランプ。得体の知れない品を売る商人たち。
「こんな場所じゃ、これほどの金を崩せる奴なんざいませんよ! 金貨を銀貨に替えるには、最低でも正規の両替商を通さなきゃならないのに、ここはそんな場所じゃ……」
「ここにいるじゃないか」
奴隷商人の言葉が、途切れた。
俺は振り返って、彼を見た。
「なん……ですって?」
「替えてくれる者。ここにいるじゃないか」
奴隷商人の目が、見開かれた。
俺は一歩、近づいた。
「お前が、俺のところで働いて返せばいい」
奴隷商人の口が、開いて、閉じた。金貨を握った手が、微かに震えた。
俺は、コートの内ポケットから、折りたたんだ羊皮紙を一枚取り出した。
奴隷商人の目が、羊皮紙に吸い寄せられた。
きちんと整理された書式。項目番号。印を押す箇所。どこから見ても、公式文書の形をしていた。
雇用契約書だった。
闇市に入る前に、用意しておいたものだった。
奴隷商人の表情が変わった。
強欲と困惑が退き、その場所に、好奇心が上ってきた。そして、わずかな安堵。貴族が差し出す雇用契約書なら、少なくとも形式は整っているだろうという期待が、顔に見えた。
「読んでみろ」
奴隷商人が、羊皮紙を受け取って読み始めた。
最初は、頷いた。
第一項、雇用期間。問題ない。
第三項、報酬体系。悪くない。
第四項、業務範囲。ふむ、広くはあるが、受け入れられる。
ところが。
読む速度が、遅くなった。
目が、一点に留まった。
そして、彼が顔を上げた。
「この第二項と第五項の下についている具体的な条件……というのは、何ですか」
声が変わっていた。さっきまでのずる賢さも、卑屈さもなかった。
商人が契約書を読む目だった。真剣で、鋭く、見逃さないという目。
『やはりな』
この箇所をただ読み流すような人間だったなら、スカウトする価値がなかった。
俺は、羊皮紙を指さして言った。
「さあな。そんなに頭が回るなら、自分で考えてみたらどうだ」
奴隷商人の目が、細くなった。
間違いなく、この男の頭の中では、無数の計算が回っているはずだ。
だが、俺はあいにく、時間を与えなかった。
「さて。やるのか、やらないのか」
単刀直入。
奴隷商人の口が、開いて、閉じた。もう一度、羊皮紙を見下ろした。
そして。
「や、やりますよ! 返すって言ってるじゃないですか!」
計算が終わる前に、口が先に動いたのだった。
毒素条項の意味を完全に把握しきれないまま、負けん気が判断を追い越した。
底辺で生き延びることができた理由であり、底辺から抜け出せなかった理由が、同じ瞬間に露わになった。
『計画通りだ』
俺は、おくびにも出さなかった。
奴隷商人が羊皮紙の下端に署名を走らせている間、俺はゆっくりと彼に近づいた。
インクが乾く前に、俺はカトリーナから受け取った藍色の巾着を取り出した。
それを、奴隷商人の胸元に軽く叩くようにして渡した。
「もう、お前のものだ。大事に持っておけ」
奴隷商人の手が、止まった。
「……え?」
理解できない、という表情だった。
契約書に署名した。雇われた。ならば、持っているものを奪われるのが筋だ。
それがこの大陸の常識であり、数多の闇市の掟であり――この男が歩んできた人生そのものだった。
なのに、返すというのか。
金貨の入った巾着を?
奴隷商人の目が、揺れた。
強欲でも、計算でも、負けん気でもない。
初めて見る種類の感情が、その顔の上を通り過ぎた。
奴隷商人は、しばらく巾着を見下ろしたあと、ゆっくりと顔を上げた。
腰を伸ばした。
卑屈な姿勢が、消えていた。
右手を差し出した。
握手だった。
屈服ではなく、取引。
「商人ドウェル」
声が違った。さっきまでのどのトーンとも違う、初めて出す声だった。
「――我が主に、ご挨拶を」
俺は、その手を、無言で力強く握った。
ただ、その行為一つで、十分だった。
取引の話を盛り込んだら、思いのほか長くなってしまいました。次回からは、いよいよ自治領の話に入ります!




