第19話
造幣局へ戻り、重い扉を開けて出ると、冷たく沈んだ城内の空気が肌に触れた。給金が支払われなくなって、もうずいぶんと時が経っていた。
それでも、黙々と廊下を掃き、警備に立つ者たちの姿が目に入った。前世の知識に照らせば、金の巡らない組織は、死んだも同然だ。
それでもこの者たちが持ち場を守るのは、公国への盲目的な忠誠心なのか、それとも未練なのか。
どちらであれ、悪くはない。今の俺に必要なのは、すぐにでも動いてくれる手足なのだから。
俺は、傍らに立つアイノが抱えていた重い袋を開けた。
最初は、ほんの数枚だけ取り出して握らせるつもりだった。だが、給金の一枚すら受け取れぬまま、黙って持ち場を守り続ける彼らの姿に――気づけば、俺の手は止まらなかった。
通りかかる従者や警備兵を呼び集め、鋳造したばかりの銅貨を、その手に握らせていく。
最初は、ただ価値を失った銅くずだとでも思ったのだろう。だが、硬貨を受け取った者たちの表情が、みるみるうちに変わった。
銀貨が混ざり込み、かすかな銀の光を帯びた新しい銅貨。手のひらに触れた瞬間に伝わる、ひやりとした感覚と、ずしりとした重み。その前では、長い説明など要らなかった。
ある者は息を呑み、ある者は信じられぬとばかりに、硬貨を光にかざした。
俺はあえて、これがどれほどの価値を持つのかを、声高に並べ立てはしなかった。ただ黙々と、銘々の分を渡していくだけだ。
『金とは、つまるところ信頼だ』
手に握らされた財が、確かな価値を持っているという、本能的な感覚。それだけで、死んでいた彼らの瞳に、生気が戻り始めるのが見て取れた。
商人たちを焚きつける前に、まずは内部の口と足を、しっかりと縛りつけておく必要があった。この者たちが市場へ出て、この新しい銅貨の価値を証明する、最初の歯車となってくれる。
最後の一枚まで握らせ終えると、ずしりと重かった袋が、いつの間にかずいぶん軽くなっていた。
俺の手を経た小さな信頼の痕跡が、城の中へと散らばっていくさまを、しばし眺めた。軽くなった袋を撫でながら、俺は低く呟いた。
「結局、全部配ってしまったか」
だが、まだ二袋も残っている。もとより鋳造したのは、三百枚なのだから。
俺は残りの袋を抱え、約束された城内の庭園へと足を運んだ。そこには、公国でそれなりに力を持つという商人たちが集まり、俺を待っていた。
俺が卓の上に重い袋を置き、中身を取り出してみせると、商人たちの反応は、はっきりと二つに分かれた。
「これが、新しい銅貨ですね!」
若く目端の利く商人たちは、目の前に晒された確かな実物の価値に、喜び、沸き立った。銀貨の混ざったこの新しい貨幣が、すぐにでも市場でどんな利をもたらすか、彼らはすでに頭の中で、計算を済ませたようだった。
だが、誰もが快く迎えるわけではなかった。これがもたらす新たな嵐を案じる、老いた商人たちもいた。
その皺の刻まれた顔には、濃い憂いが沈んでいた。
貨幣の価値と体系が覆るということ。
それが商団と市場に、どれほど巨大な嵐を呼び込むか、長年の経験で知っているからこそだろう。
喜ぶ者と、恐れる者。交錯する彼らのざわめきを聞きながら、俺は心の内を隠すように、いっそう大きく笑ってみせた。
『どちらでも構わない』
結局のところ、あの者たちは、俺の作り出したこの巨大な流れに乗らずして、生き残れる立場ではないのだから。
俺は、欲と警戒の入り混じった商人たちの視線を一身に浴びながら、ゆっくりと口を開いた。
「さて。では、本格的な話を始めましょうか」
交渉の時間だった。
商人とは、徹底して利によって動く生き物だ。彼らに、新しい銅貨がもたらす利点と交換比率、そして取るべき立ち位置を明確に示してやると、その眼差しに宿ったのは、もはや怒りではなかった。
ただ、どうにかしてより多くの分け前を奪い取ろうと巡る、欲と計算だけ。
彼らとの張り詰めた綱引きを終えると、俺は最後に残った袋を一つ抱え、街へと出た。
城内の者たち、そして商人たちへの掌握は終わった。
残るは、ただ一つ。この公国を、底辺から支える本当の根――民間に生きる、ありふれた人々のもとへ向かう番だった。
街は、いまだ不安と沈滞に陥り、ひどく寂れていた。火の消えた竈の前をうろつくパン屋の主人、客足が途絶え、埃の積もった卓を拭く宿屋の主人、そして仕事がなく、針を置いた仕立て屋の縫い子。
俺は固く閉ざされた扉を叩き、彼らを広場へと呼び集めた。
その落ちくぼんだ瞳には、貴族や商人のように、損得を素早く弾き出す悪賢さなど、ありはしなかった。明日食べるパンすら手に入れがたい、一日一日が、ただ茫漠として切実な、灰色の眼差しだけが、俺へと向けられていた。
俺は口を開く代わりに、黙って最後の袋の紐を解いた。
そして、銀の光を帯びた新しい銅貨を、彼らの目の前へとぶちまけた。
価値を失った旧き時代の遺物ではない。
彼らの労働と汗を、正しく報いる、公国の新しい動力。その鈍く重い金属音が、広場の静寂を破って響き渡ると、人々の呆けた顔に、一瞬、亀裂が走った。
それで、十分だった。
毎日のように絶望に沈む者へ、新しい未来を指し示すこと。それが、俺がこれからやるべきことだ。
「これより、公国は変わります!」
彼らへ向けて叫んだこの言葉は、俺自身への、誓いの言葉でもあった。
いつも読んでいただき、ありがとうございます。
次回からは、公国に隠されたエピソードと、レインを取り巻く人々の物語が続きます。
これからも、レインの物語にお付き合いいただけますと幸いです!




