第五話
「ベリンダっ」
中庭に面した回廊を歩いていたベリンダは、名前を呼ばれて振り返る。走ってくるのはさっき別れたばかりのテオバルトだった。
息を切らせて走ってきた彼は、ベリンダの前に辿り着いた途端強引にその手を取ると、人目を憚らず中庭へ降りていく。
「テオバルト様っ、どうなさいました?」
「……やはり、このまま君を行かせるわけにはいかない」
最初からそこが目的地だったのだろう。程よく庭木が茂った人目につきにくいベンチへ真っ直ぐ向かったテオバルトは、またも強引にベリンダをそこに座らせると真ん前に立って彼女の逃げ道を塞いだ。
訳の判らないベリンダは、目を白黒させながら目の前の同僚をただ見あげて理由を求める。
「テオバルト様、これは一体……?」
「どこへ行こうと、このままでは君はまた同じことを繰り返す。それじゃ、君はいつまでたっても幸せになれない」
幸せ? そんなものは求めていない……否、求めてはいけないと判っているのに、貴方は何を言っているの?
小首を傾げて見上げる先、美男子だと王宮侍女の話題を攫う同僚は、言葉を探すように何度か口を開け閉めしてやがて、苦しそうに顔を歪めて、細く呟いた。
「君の敵は、君自身だ」
テオバルトに何を言われたのか判った途端、ベリンダの視界が急速に滲んだ。
事実を、誰かからはっきり言葉にして伝えられたのは初めてだった。
そう、そうなのだ。
ベリンダの傷。
ベリンダの恐れる、敵。
それはベリンダの心の中に住んでいる。
「ええ。ええ……、判って、いるんです。ちゃんと、判っているんです」
ボロボロと勝手に零れ始めたものを拭うこともせず、ただ頷いた。
「だから……私は、……もうこれ以上、皆様に迷惑はかけられない」
自分では止められない。
気付いたから今日、あの書類をコーネリアスに渡した。
あれは全部、ベリンダに対する苦情と移動の嘆願書と、それらについての調査書の束だ。
正しい自身の評価と軌跡をベリンダは初めて知った。
両親の言葉を信じたくなくて、否定する材料を求めてかつての職場を巡り、やっと……知った。
自分はいつだって懸命に仕事をしてきたと思っていた。
毎回栄転と祝われて送り出されてきたと信じていた。
でも現実は違った。
ベリンダはいつも誰かの領域を侵し、邪魔になって放り出されていた。
暗号の注釈を書いて同僚を困らせた最初の部署。独自の計算式で帳簿をつけて、混乱させた次の部署。次も、その次も……ずっと同じことを繰り返し、そのせいで職場を転々とさせられていたことをやっと知った。
知った、気付いた、判った。
でも、やめられない。
やめる自信がない。
誰でも出来ることじゃ意味がない……。
自分しか出来ないことがしたい……。
私にしか出来ないことを見つけなければまた……。
傷が恐れを生む。
この恐れは消えない、きっと永遠に。
何故なら……。
ベリンダの望む、誰にも奪われない絶対の居場所は、今のベリンダでは絶対に見つけられないから。
祖母にも判っていたのだろう。
だから祖母が用意した縁談は、異国の商会頭の妻の座だったのだ。
年の離れた男には死別した妻が残した跡取りがいて、後妻に求めているのはビジネスパートナーとしての役割だけ。
何も知らないままなら、ベリンダは嬉々としてその役目を果たしただろう。求められるままひたすらに、死ぬまで数字と文書に溺れて働いたはずだ。
それさえ熟していれば誰もベリンダの居場所を奪わない。商会を動かす歯車としての役目を居場所と定めて、生命すり切れるまで働き、かけがえない場所を見つけたと誤解して死んでいけた。
本人が何も気付かないなら、それも一種の幸福だと、祖母は考えたのだろう。
でもベリンダは気付いてしまった。
自分の傷に。
過ちに。
だからこそ、コーネリアスの優しさの意味も判って……。
だからこそ、その優しさにただ縋って、生き延びることは出来ない。
すべて判って貴方と袂を分かつのだという意思表示に、今日あの書類束を彼に渡した。
だから、引き留めないでほしい。
どうか私の最後の矜持を、意地を認めて、許して、送り出して。
血の涙を流すような思いでコーネリアスの厚意を振り切ったのに。
どうしてこの人は引き留めるの?
どうして涙を流させることを言うの?
幸せなんて求めてない。
誰かの迷惑にならないようただ生きさせてほしい。
潰れて、歪んで、くしゃくしゃになった胸の内。かつて祖母に縋ったあの日と同じように、テオバルトを見上げ、ベリンダは息を吸い込んだ。
けれどそれが声になる前に、酷く真剣な顔でベリンダの前に跪いた彼は、太腿の上で必死に握りしめられていた小さな手に己の手を重ね。包むように握って言った。
「ベリンダ嬢、どうかオレの妻になってほしい」
しゃがんで目線が下になった彼を見下ろすと、更に激しく涙が落ちる。必死にしゃくり上げながら小首を傾げた。
「………………はい?」
「俺と結婚してほしい」
「何を、おっしゃって、いるのですか?」
「三年間君と一緒に過ごし、ほぼ毎日君を見てきた。オレは、君が求めるものを知っている」
包んだ手を尊いもののように撫でさすり言われる言葉を、ちゃんと理解したいのに涙が邪魔をする。上手く呼吸が出来なくて、思考がはっきりしない。
覚束ない思考のままベリンダは思いついたことを返した。
「……でも、あなたにはずっと、忘れられない、人がいる」
「ああ」
あっさり頷いておいて何を……テオバルトの想い人についての噂は有名だ。
片想いの果てに、他人の妻になってしまった女性を、しかし彼は未だ忘れられず。心の中に彼女だけを置いて、他の女性を寄せ付けずに仕事に打ち込んでいるのだとみんなが言っていた。
望めばいくらでも女性を侍らせられる美貌も名誉も持ちながら、一途に一人を想う様が、余計に女性の興味を引くのだ。
その彼が、自分を妻に望む?
あり得ないと無意識に首を横に振るベリンダに、同じように首を横に振って、テオバルトは語りかける。
「オレなら一生かけて君に付き合える。君が信じるまで言い続けられる。ベリンダ、オレは君が好きだ、君を必要としてる」
「戯れ言を……」
「ああ、今はそう思っていてかまわない。いつかでいいんだ。その日まで、どうかどこにも行かないで、オレの隣にいてくれ」
普通の女なら赤面せずにいるのは無理だろう美しい顔面を綻ばせてベリンダに願う男。学生時代も、王宮勤めになってからも、テオバルトに焦がれる女性を幾人も知っている。
その男からの愛の告白に、寧ろ青ざめて……ベリンダは震える声を絞り出した。
「……だめ、無理」
「試してみよう」
「嫌、私は、何も、誰も信じられない。殿下ですら、おばあさまですら、もう、信じられないのに」
「でも、それが君を騙す意図で隠されたんじゃないのは判ってるんだろ?」
「判っても……私のためだったとしても、隠されていたのが辛いの、だから、もう何も信じられないの」
信じたいとどんなに願っても、信じる気のないこの心。
裏切られるのが怖いならば、もう二度と信じなければ良い。
原因を作らなければ結果は出ない。
短絡的な思考。
打ち消しても打ち消しても、傷から無限に生まれる猜疑心は自分でもどうすることも出来ない。
信じたいのに、信じられない。
コーネリアスの優しさも、祖母の愛も。
あると判っているのに、信じられない。
そんな自分が嫌いで、厭わしい、寧ろ憎い。
だから離れたい。卑屈な心が、優しい人を悲しませないように……。
「オレは策謀は得意じゃない。人の感情を読むのも苦手で、愚直すぎるとよく殿下やレオに怒られる、だから嘘も、隠し事も下手だ」
「だから、隠さずに、別の女を思い続ける男に、嫁げと?」
「今は違うと言っても信じないのは君の心だ」
「……ええ、そう、もう無理なの。私は誰かを信じるのが怖い。そんな私は、誰かを傷つけ、続けるから……」
「君の傷が決して癒えない事実に周りが傷つくのが嫌なんだろう?」
「違う、……醜い私を知られたくないだけ。全部、私のため」
「そういうベリンダが俺は好きだ」
誰もが憧れる美貌の同僚にさらりと告げられても、何も心に響かない。
「嘘よ……、そもそもそんな素振り、今まで一度もなかった」
「ずっと自分のことしか見てなくて、周りに興味がなかったのは君の方だろう? オレが食事に誘っても、デートに誘っても、ベリンダは職務に関係ないことは何一つ興味を示さなかったじゃないか」
食事? デート? 仕事の合間に何気なく交わされた会話を思い出す。
仕事の後、休みの日、確かにテオバルトはベリンダの予定を聞いて、暇なら一緒に過ごさないか? と誘っていたことがあった。
「だってあれは……会話の流れで、そう聞くしかなかっただけ、……でしょう?」
「ほら、そう受け取って、君は三年間一度もオレの本気に気付かなかった。……ただ、それだけのことなんだよ」
笑いかけたテオバルトは、失礼するよと言って突いていた膝の埃を払い。ベリンダの隣に腰を下ろして真っ直ぐ前を見たまま、少し昔の話を始めた。
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