蟻宮、○○と口走ってしまう
あっさりと就職が決まったカフェ・ミストラルで働き始めた蟻宮吉野。そこへ、一人の女の子が現れて―――
ぷしっ、と炭酸飲料のペットボトルを開けたときのような音がしてバスの扉が開いた。白にピンクのラインが入ったスウェットパンツに、白いパーカー、白いボアキャップ(つば付きのフリース生地の帽子)を目深に被った小柄な女の子がバスのタラップをトントントンとリズミカルに駆け下りてきた。一言で言うなら白猫みたいな女の子だった。
「発車します」と高めトーンの合成音声が流れ、しゅーっと音を立ててバスの扉が閉まった。女の子は帽子のつばをつまんでくいっと上げ、正面の商業ビルを見た。右の入り口の看板には〝○○銀行〟とある。女の子は支線を左へ移動させた。もう一つの入り口の看板は〝○○電機〟とある。
白猫みたいな女の子は立ち止まり、う~ん?と考え込むように首を傾げた。
直後、銀行側の自動ドアが開いて、蟻宮が飛び出してきた。
「すももちゃん、こっち!」
「ありり、バス降りたらすぐ店だって言ったじゃん。カフェ、どこなんよ!?」
「え?目の前にあるじゃん?」
言われて、すももと呼ばれた女の子は、もう一度、蟻宮が出てきた自動ドアの上の看板をじっくりと見た。
〝○○銀行〟
うん。間違いない。何度見ても、地元の人なら誰もが知っている地方銀行の看板にしか見えない。
「銀行じゃん」
「あれ?」
蟻宮も看板を見た。
「銀行だね」
「ありり―――」
すももは、ジトっとした目で蟻宮を見た。
「ち、ちがうの!」
蟻宮は、すっと目を逸らした。
「お店、この中なの。あ、ほら、すももちゃん、わたしより、しっかりしてるじゃない?年上だし。だったら、わかるかな~って」
「カフェのカの字もないのにわかるかっ!あたしは、あんたみたいな、野生の勘は持ち合わせてないのよ!あと、年上は余計じゃ!」
すももの心底からの叫びが店内に響き渡った。
「ごめんなさいいっ!」
「お待たせ~」
蟻宮は、すももの前にティーカップを置いた。
「すももちゃん、コーヒーより紅茶派だよね。はい、フルーツティーだよ」
それは、何の飾り気もないシンプルな紅茶だった。フルーツティーと言いながら、パッションフルーツに切れ目を入れてカップの縁に挟むような小細工はしていない。パッションフルーツどころか、レモンの一つも浮かんでいない。一見して、ただの茶色のお湯だった。
すももは、カップの把手を指でつまむと無造作に口元に運んだ。
果物の香りがカップの縁からあふれ出し、すももは目を見張った。
蟻宮がちょこんと、すももの向かいに座った。
「これ、ありりが?」
すももの驚いたような声に、蟻宮は、にへらっと笑みを浮かべた。
「美味しいでしょ」
「うん、すごい」
「わたしが、煎れたんじゃないけどね」
「ちがうんかい!」
すももは、思わずつっこんだ。
「この吉野様が手ずから運んでやったのよ。感謝しなさい」
蟻宮は、そんなすもものつっこみにも悪びれる様子もなく、にこにこしていたが、すももは、きょとんとした顔をした。
「吉野って誰?」
「ひどっ!わたしの名前だよ!」
蟻宮は憤慨した。
「いやあ、あたしの中では、ありりって、ありりって認識しかいないんだよね」
「だってさぁ、わたしの家族、みんな蟻宮なんだよ。名前で呼んでほしいじゃない?それに、蟻だ蟻だっていじめられるしさ」
「それ、いつの話よ」
「小学生」
「引きずってんなぁ」
すももは、呆れたようにいった。
「お話が盛り上がってるわね。ありちゃんのお友達?」
「あ、ルルさん」
店の奥から、紅茶色のミディアムボブヘアー(鎖骨に付くか付かないかぐらいの長さのショートヘアーの髪型)の女性が、小さなコーヒーカップを持ってきて蟻宮の前に置いた。
「ありがと。お友達っていうか、元同僚?」
「……なんで疑問形なのよ」
すももが不満そうに呟いた。蟻宮は、何も応えず、ルルが持ってきたコーヒーに口を付けた。
「あ、スパイス入ってる」
「んふふー。ありちゃんで実験ね。ヒハツってスパイスが売ってたからさ」
「ん~?すっぱいような、胡椒っぽいような?」
ルルは、蟻宮のキツネにつままれたような表情を見て、満足そうな笑みを浮かべた。
「じゃね、ごゆっくり~」
そう言うと、ルルは店の奥に戻って行った。
「ふ~ん、ここでうまくやってんのね。人見知りのありりにしては珍しいじゃない」
「ま、ね」
蟻宮とすももは、カップを手に取り、それぞれの香りを楽しんだ。
「ねえ、ありり」
「ん?」
「えっと……」
すももは言い淀んだ
「?」
蟻宮は、不思議そうに小首を傾げた。
「いや、やっぱいいわ」
「すももちゃんらしくない、はっきり言いなよ」
すももは、蟻宮のスカイブルーの瞳をじっと見た。そして、かちゃりとカップをソーサーに置いた。
「じゃあ、聞くけど」
すももは、慎重に言葉を選ぶように、考えてきた質問をした。
「何で、この店で働いてるの?」
「何でって、FF14でフレンドから、こういう店があるよって教えてもらって」
「FF14って、ありりが配信やってたMMORPG?」
「うん」
すももは、逡巡するように目を逸らした。
「あの……」
いつの間にか大学生ぐらいの若い男が横に立っていた。
「ありりんですよね、FREESiAの」
「そうですけど」
蟻宮が、そっけなく答えた。
その蟻宮の、何の感情もこもっていない冷たい返事を聞いて、大学生(と呼んでおく)の顔が、それこそフリージア(アフリカ、ケープ地方原産のスイセンのようなラッパ形をした色鮮やかな花)のように、ぱあっと明るくなった。なぜだ?
「俺、ありりんのファンだったんです。こんなところで会えるなんて」
「そう。ありがとう」
熱のこもった大学生の言葉を聞いて、蟻宮の声の温度はさらに下がった。
「うわ~、氷花、塩対応の妖精って呼ばれた、そのままなんですね。感激です」
「何に感激してるのよ、この男は」
すももが、呆れたようにぼそっと呟いた。
「でも、ありりん、なぜ、辞めちゃったんですか。あんなに人気あったのに」
大学生は、何の悪気もなしにさらっと聞いた。
すももの顔が強張った。
それこそ、すももが蟻宮に聞きたくても聞けなかった質問だった。事務所からは、家庭の事情で突然辞めたとしか聞いていなかったから。
すももが、何度も必死に社長を問い詰めたのに、
「いやあ、家庭の事情としか言えないから―――」
という歯切れの悪い答えしか返ってこなかったのだ。
グループのメンバーが突然辞めたなど、FREESiAにとっては―――いや体面を取り繕うのはやめよう。すももにとっては一大事だった。それなのに、何の説明もないなんて!
何よりも、すももにとっては、蟻宮から事前に何も相談されなかったことが、一番ショックだった。3日3晩泣きはらし、その後は荒れ狂った。社長さえ、すももを恐れて、すももが来訪すると、居留守を使うようになったほどだ。
FREESiAの活動は無期限休止となった。ようやく固定ファンが付き始め、同時視聴者数が伸び始めた時期の無期限休止は、FREESiAにとって致命傷と言ってもよかった。リアルイベントは予定されていなかったので、Vチューバー配信の休止だけで済んだのは、不幸中の幸いだったが、サーバーは連日パンクし、視聴者から、山のようなクレームのメールが事務所に殺到した。
一時はネットニュースにもなったほどの大騒ぎだったが、炎上は、なぜか1か月を待たずして自然消火し、クレームメールもほとんど来なくなった。無責任なメディアや、それほどFREESiAと関わりのなかった、にわか視聴者たちは「世間の関心がFREESiAから急速に離れた」と解釈し、「FREESiA終わったな」というツイートが飛び交ったのを最後に、FREESiAの話題は、ほぼ完全にネット世界からも消え去った。
19年間の人生の、ほとんど全てを芸能活動に捧げてきたすももであれば、せっかくつかんだFREESiAという大きなチャンスが、何の予兆もなく突然消えてしまったことを、もっと嘆いてもよかった。
しかし、最初の驚愕の感情が収まってくると、後から湧き上がってきたのは、怒りや恨みではなく、蟻宮を失ったことへの大きな悲しみと喪失感だった。
それから、すももは絶望という檻に捕らわれ、毎日欠かさず続けていた歌やダンスのレッスンにも顔を出すことはなくなり、3週間もの間、自宅で引きこもり状態となった。
マネージャーの依木や、社長のえるるは、チャットですももに話しかけたり、自宅を訪問したりしたが、抜け殻のようになったすももを見て、顔を曇らせることしかできなかった。
そんなすももが、自室で布団にくるまって、スマホで過去の配信を見ていた時、一人のファンの書き込みが目に留まった。
「名古屋にある、カフェ・ミストラルで蟻宮吉野を見た」
すももは、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、なぜか切れずに残っていたFN(フラクタルネットワーク:統合型SNSサービス)から、蟻宮にメッセージを送った。すると、一度だって返ってきたことのなかった蟻宮からの返事が届き、その返事を読んで、すももは、今日、カフェ・ミストラルを訪れたのだった。
「AV女優だって、親にばれちゃったから」
「ありり!え?ちょ、まっ―――え!?」
蟻宮の、何の躊躇もない返答は、恐らく人には言えないような、とんでもない裏事情があるのだろうと、身構えていたすももの斜め上をかっ飛んで行き、「こんなところで言っちゃだめだって」と慌てて止めに入ろうとしたすももを凍り付かせた。
店内の時が静止していた。客という客の全員が動きを止め、ルルなど、注いだカップから紅茶が洪水のように、カウンターへとあふれ出しているのに、ポットを引き起こそうともしなかった。
「え?―――え!?―――ありり、どういうこと!?」
「FREESiAに入る前なんだけど、最初の芸能事務所が、すぐに撮影したいって、連れて行かれたスタジオで、セーラー服とか水着とか着せられて撮影させられたのよ。すごい恥ずかしかったから、そのまま、事務所を辞めちゃった」
慌てふためくすももを見ても、蟻宮は動じず、淡々と説明した。
「そ、そうなんだ」
「そのときの映像が残ってたらしくて、パパが見ちゃったのね」
さらに淡々と説明した。
「う、う~ん。そうなんだ」
もはや、大混乱のすももは、「そうなんだ」しか言えない人形になってしまった。
「パパが怒り狂って、うちの娘をAV女優にする気かって、なぜか、全然無関係のフリージアの事務所に怒鳴り込んで、そのまま辞めさせられちゃったのよ」
「な、なるほど」
こんな話を聞いて、すももに、他にどういう返事ができるだろうか。
「―――って、何でみんな固まってるの?」
蟻宮の不思議そうに言った。
呪縛が解けたように、すももが、この上なく真剣な顔を蟻宮にぐっと近付けた。
「ありり!」
「はい」
蟻宮は気圧されたようにうなずいた。
「言いにくいことを聞くんだけど」
蟻宮は頭を上下にかくかくさせた。
「脱いだの?」
蟻宮は、ぽかーんとして、上気したすももの顔を見た。
「脱ぐわけないじゃん」
は――――という長いため息が、その場にいた全員の口からこぼれ出た。
「ありりん、言いにくいんだけど……」
大学生風の男の子が、蟻宮から顔を微妙に背けながら言った。
「それ、AVじゃないです」
「え?」
蟻宮が、きょとんとした顔をした。
「それ、IV……イメージビデオって言って、ギリ、セーフ―――」
すももが大学生の口を塞ぎ、大学生は苦しそうにふごふごした。
「余計な説明はしなくていい」
「IV?」
「ありりも、余計なことは覚えなくていい!」
「はい」
蟻宮は、すももの剣幕に気圧されて、素直にうなずいた。
「ありちゃんって処女なの?」
いつの間にか店の奥から戻ってきたルルが、蟻宮にとんでもないことを聞いた。
全員がすごい目でルルを見た。
ルルは「ん?」という顔をしていた。
その、ルルの口と目がまん丸になった。店にいた全員が、ルルの視線を追った。そこには、耳まで真っ赤にした蟻宮がいた。唇は震え、目尻からは涙がにじんでいる。すももは、ぱっと立ち上がると、蟻宮の前に瞬間移動し、みんなの視線からガードするように、蟻宮の両肩に手を置いて胸元に引き寄せた。
店にいた客全員が集まり、なぜか円陣を組んだ。
大学生が、さっきの頼りない様子はどこへやら、
「ありりんの秘密は俺たちが守る!」
と力強く叫び、みんなが、
「おおっ!」
と腹の底から声を出して応えた。
「秘密を漏らした者には死をもってつぐなってもらう!」
物騒な物言いに、
「おおっ!」
と、より大きな怒声が揚がった。なぜか、ルルも円陣に加わっていた。
この日、カフェ・ミストラルでは、居合わせた客により、蟻宮の秘密を守るための秘密結社が結成されたのだった。その円陣を生温かい目で見ながら、すももは理解した。
「この子、やっぱりアイドルの素質あるわ。ちょっとぶっ飛んでるけど」
と。
『原作』の後書きにも書いた通り、蟻宮吉野の物語は、夢で見た、このエピソードを膨らませて生まれました。人間は昔から〝夢〟を見てきましたが、現代科学をもってしても、なぜ人は〝夢〟を見るのか、謎は解き明かされていません。「人が寝ている間に脳が遊んでいる」とする学説を読んだことがありますが、小説を書くことも遊びの一つですから、この学説は「なるほど~」と思えます。
ともあれ、わたしが〝夢〟を見なければ、蟻宮吉野の物語が生まれることはなく、さらに、わたしが小説を書こうと思わなければ、こうしてみなさんに読んでもらうこともなかったわけです。『原作』では、〝夢〟を忠実に再現しましたが、1年が経過した、この作品では、その後、30話に渡って書き続ける中で膨らみ続けた裏設定を上乗せしました。
え? IVはセーフなのか?
テレビ番組『クレイジージャーニー』に出演している、丸山ゴンザレスさんが、「うしじまいいにく」さんのインタビューをユーチューブチャンネルにて公開しています。それを見てもらえれば、アイドルを夢見る少女達を搾取する裏社会の実態が垣間見えるかと―――。わたしの口からは、これ以上は、とても―――。
まあ、セーフかどうかと問われれば、アウトなんですけどね。
いつ、エピソードに書けるか想像もつかないので、こんな後書きまでちゃんと読んでくれている読者様に、ちょっとだけ裏事情を話すと、警察のお偉いさんである蟻宮の父が、警察権力をフル行使して、当該事務所を、関係者を含めて洗い出し、徹底的に叩き潰しました。その際、全ての映像データを破壊しています。金に飢えた悪人とはいえ、相手が悪かったね。
また、それなりに影響力をもつ蟻宮の母や、その友人たちが、業界に睨みを効かせているので、今後も、この件が表沙汰になるとは考えられません。例え表沙汰になったとしても、芸能事務所FREESiAを運営する社長は、テレビ業界に喧嘩を売ったアウトローなので、痛くもかゆくもないでしょうね。




