日常の市場と、不穏な影
半年間の地獄のような修行を経て、春希は修道院の外の世界へと一歩を踏み出します。異世界の奇妙な生物との出会い、そして賑やかな市場の活気。しかし、平和な日常の裏には、いつの時代も理不尽な暴力が潜んでいるものです。生まれ変わった春希の、初めての実戦が幕を開けます。
翌朝、春希はすっかり見違えるような姿で街へ出かける準備を整えていた。髪型こそ以前と変わらないストレートの無造作ヘアだったが、その身には修道院の門下生と同じ鮮やかな赤の着物風の法衣をまとっていた。そして万が一の用心のために、腰には刃のない**シンプルな仕込み杖(木刀)**を携えている。
市場へと続く緑豊かな一本道を歩いていると、道の傍らに奇妙な生き物が姿を現した。それはこの星に固有の生物である**『ヒポドロクス(Hippodrocus)』の赤ちゃん**だった。成長すれば巨大なサイのようになるその生き物は、独特の茶褐色の皮膚と、どこかコミカルで愛嬌のある鼻を持っていたが、子供の今は非常に愛くるしい。春希は思わず足を止めると、その頭を優しく撫で、近くに生えていた大きめの葉をちぎって差し出した。赤ちゃんヒポドロクスは嬉しそうに鼻を鳴らし、それを美味しそうに食んだ。
小さな癒やしを終え、春希は目的地の市場へと足を踏み入れた。そこは幕府の民たちの活気と怒号が飛び交う賑やかな場所だったが、ある一角だけが異様な静けさに包まれていた。人だかりの向こうを覗き込むと、肥満体型で巨大な体躯の悪党が、青ざめた貧しい露店の店主を強引に脅しつけ、みかじめ料(保護代)を要求しているのが見えた。
その理不尽な光景を目にした瞬間、春希の胸の奥で激しい怒りが燃え上がった。昨日の裏切りによる心の傷、そして半年間抑え込んできた感情が、正義感となって噴出する。
春希は野次馬の列から悠然と歩み出ると、巨大な悪党の背中に向けて人差し指を突きつけた。
「おい、デブ。人の迷惑考えずに何やってんだ?」
京都にいた頃と何一つ変わらない、どこまでも冷ややかで飄々としたノンシャランな態度のまま、春希は言い放った。その声には、怯えなど微塵も存在しなかった。
肥満体の巨漢は激怒し、低い咆哮とともに振り返った。その大手が春希の胸ぐらを掴もうと伸びる。しかし、半年間の地獄のような『エオン』の鍛錬と瞑想は、春希の肉体を完全に変貌させていた。マナによる強化がなくとも、彼の五感は敵の動きを寸分の狂いもなく捉えていた。
春希は半身をかわし、大男の突きを紙一重で避けると、手にした仕込み杖(木刀)を電光石火の速度で突き出した。
「おおっ!?」
乾いた打撃音が響く。春希の容赦ない打撃が大男の顎、手首、そして膝の急所を的確に捉えた。大男は低級の身体強化魔法を発動しようとしたが、そのマナが練り上げられる前に、春希の超高速の連撃が肉体のバランスを完全に崩し、巨躯が泥の中に叩きつけられた。市場の群衆が一斉に息を呑む。魔法を一切使わず、純粋な体術と速度だけで巨漢を圧倒したのだ。
この目覚ましい大立ち回りを、人混みの向こうから鋭い眼差しで見つめる男がいた。川口闇(Kawaguchi Yami)――陽光幕府の第四武装中隊の「筆頭副官」である。彼はちょうど定期巡回の真っ最中だった。
副官・闇は、若者の無駄のない電光石火の身のこなしに深く感銘を受けていた。さらに近づいて春希の姿を認めると、その印象は確信へと変わる。美しく切り揃えられた顎髭、端正で男らしい彫りの深い極めて優れた顔立ち、そして着物の下からでも分かる、無駄な脂肪を削ぎ落としたしなやかで強靭な筋肉質の体躯。その風貌と圧倒的な剣技のセンスに、闇の心は躍った。
(……見事な器だ。魔力の気配は微塵も感じられんが、あの身体能力は本物だ)
闇はその場で、上司である中隊長へこの少年を軍に推薦し、スカウトすることを決意した。しかし、そのためにはまず、彼自身の目で実力を測る「小さな手合わせ」が必要不可欠である。
闇は部下を伴って春希の前に歩み出ると、厳かに声をかけた。
「見事な腕前だ、少年。明日、我が第四中隊の訓練場へ来い。お前の力を試す『小さな試合』の機会を与えてやろう。結果次第では、将軍家に仕える道が開けるぞ」
突然のスカウトに驚きつつも、春希は表情を崩さず、静かに頭を下げてその場を離れた。
修道院の自室に戻った春希は、赤の法衣を脱ぎ、ベッドの上に腰掛けた。胸元には、京都の家族の写真が入ったキーホルダーが静かに揺れている。
(幕府の軍勢に入るか、それともこのままここで修行を続けるべきか……)
異世界での初めての大いなる分岐点を前に、孤独な来訪者は静かに思考の海へと沈んでいった。




