菩薩の教え、そして旅立ち(後半)
修道院の静寂へと戻った春樹は、冷気の張り詰めた奥の間で、老師ヨウゼイとの最後の哲学的な対話に臨んでいた。幕府の第四中隊からの軍への誘いを打ち明けると、老賢者は白髭を蓄えた顔に穏やかな笑みを浮かべ、彼を優しく激励した。
「春樹よ、恐れることなく己の道を歩みなさい。かつてこの大陸を歩み、中道の教えを説いた偉大なる仏陀のように、お前もまた己の魂の叫びに従うのじゃ。運命がお前にレモン(試練)を投げつけてきたのなら、それを使って極上のジュースを作ればよい」
その対話の中で、春樹はこの世界の驚くべき精神的基盤を知ることになる。陽光幕府の国教であり、大陸の最大宗派は『菩薩達磨(Boddhi Sattva dharma)』――すなわち、偉大なる仏陀の教えを信仰する人々であった。
その事実を初めて聞いた時、春樹は息を呑むほどの衝撃に突き動かされた。なぜなら、彼のいた地球にもまったく同じ教えを説いた仏陀が存在し、その信仰は彼の故郷である日本を含む多くの国々に広がっていたからだ。現に、京都に残してきた彼の両親や家族もまた、禅宗の仏教徒であった。
宇宙の何十億光年(何兆マイル)も離れた彼方で、なぜ同じ信仰が存在するのか。驚く春樹に、ヨウゼイは宇宙の摂理を説いた。
「至高の存在は、生命の宿るすべての惑星へと、人々に慈悲の心を植え付け、調和を保つための『運命の仏陀』となるべき特別な魂を遣わすのじゃ。過度な贅沢に溺れず、過酷な苦行にも偏らない『中道』の調和こそが真理。この世界にもまた、同じように歩んだ仏陀が存在し、お前も今や、その教えを学ぶ徒の一人となったのだ」
旅立ちの時が近づいていた。老師ヨウゼイは春樹のこれまでの修行の成果を称え、別れの温かい引出物として、木彫りの小さな仏陀の尊像を彼に手渡した。春樹はその温もりを手のひらに感じながら、家族の写真のキーホルダーの隣にそれを大切に仕舞い込んだ。
半年間見慣れた修道院の門をくぐり、赤の法衣を風に揺らしながら、春樹は己の肉体一つで幕府の軍勢へと向かうべく、力強く一歩を踏み出した。
翌朝、陽光幕府第四武装中隊の広大な訓練場は、乾いた砂煙と鋭い掛け声に包まれていた。赤の法衣を身にまとった春樹が足を踏み入れると、周囲の屈強な兵士たちから一斉に不躾な視線が突き刺さる。マナの気配が微塵もない異端の少年。しかし、春樹はどこまでも冷静でストイックな表情を崩さず、腰の仕込み杖をそっと確かめた。
「よく来たな、少年」
人混みを割って現れたのは、昨日彼をスカウトした副官・川口闇(Kawaguchi Yami)だった。闇は不敵な笑みを浮かべ、訓練場の中心へと春樹を促す。「お前の実力を測る『小さな試合』だ。相手は我が中隊でも一、二を争う俊足の魔闘士、レン(Ren)が務める。魔法の身体強化を存分に使う猛者だ」
対戦相手として進み出てきた若き兵士・レンは、全身から青白いマナのスパークを放ち、凄まじいプレッシャーを放っていた。
「おいおい、魔力ゼロの素人を相手にしろってのか? 手加減してやるから、怪我する前に降参しな」
レンが小剣を引き抜き、凄まじい速度の突進とともに身体強化魔法を発動した。一瞬で春樹の目の前へと肉薄する。しかし、春樹にとってその軌道は、修道院での地獄の半年間に比べればあまりにも単調だった。
「……遅いな」
春樹は『エオン』の呼吸法で五感を極限まで研ぎ澄まし、レンの最速の突きを紙一重の体捌きで回避した。マナの力に頼り切った大振りの一撃を見切るのは容易だった。春樹の仕込み杖が電光石火の速度で突き出される。
バギィィン!
鈍い打撃音が響き渡り、春樹の木刀がレンの手首を正確に打ち据えた。レンの小剣が宙を舞い、砂煙の中に突き刺さる。息をもつかせぬ怒涛の追撃。春樹は瞬時に懐へと潜り込み、エオンの強烈な掌打をレンの胸元へ叩き込んだ。レンの巨躯は、己が放ったマナの慣性ごと訓練場の壁へと激しく吹き飛ばされ、そのまま気絶した。
魔法を一切使わない凄まじい肉体の運動エネルギーと圧倒的な剣技のセンスに、訓練場全体が静まり返った。
「……見事だ。完璧に私の予想を超えてくれたな」
ゆっくりと拍手をしながら歩み寄る川口闇の瞳には、最高のダイヤモンドを見つけたかのような歓喜が宿っていた。
「松平春樹、お前を陽光幕府第四武装中隊の正式な一員として、特待生枠で迎え入れる。異論はないな?」
春樹は静かに仕込み杖を腰に収めると、懐の家族のフォトキーホルダーと、ヨウゼイ老師から貰った小さな仏陀の尊像をそっと指先で触れた。
(レモンを投げつけられたなら、極上のジュースを作ってやるさ)
「はい。よろしくお願いします」
孤独な異世界のアウトランダーは、ついにこの広大な超大陸で自らの足場を手に入れ、将軍家の歴史へとその名を刻み始めるのだった。




